2024.02.17 上雲楽さんへ

手紙上雲楽さんへ,手紙

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お手紙をいただきました

𓄿𓅀𓅁𓅂𓅃𓅄𓅅𓅆𓅇𓅈𓅉𓅊𓅋𓅌𓅍𓅎𓅏𓅐𓅑𓅒𓅓𓅔𓅕𓅖𓅗𓅘𓅙𓅚𓅛𓅜𓅝𓅞𓅟𓅠𓅡𓅢𓅣𓅤𓅥𓅦𓅧𓅨𓅩𓅪𓅫𓅬𓅭𓅮𓅯𓅰

上雲楽さんへ

率直に言うと、上雲さんが感じている他者というものの切実さを私は分かりきれていないなと思いました。他者を故郷喪失に見出したいというところまでは理解できました。また、演劇や舞台が集団芸術であることに本質を置いているというのはその通りだと思います。「迷路と死海」の話には、目[mé]の展示を思い出しました。

https://note.com/hachigozaka/n/n0095da46c3c1

↑「非常にはっきりとわからない」という展示の説明はこちらのnoteを参照してもらうとして(自分の言葉で書くのが懈いのです)、ここまで書いていて自分がピンと来ていない部分がわかりました。小説は書くのも読むのも基本一人なので、自分の書く小説に他者がいないと感じてしまうのはその政治性が要因かもしれない、という部分です。私はあまりここが腑に落ちていないかもしれません。なんで自分がそう感じるのかまだよくわからず、自分でも戸惑っています。あんまり、読者のことを他者だと思ったことがなかった、という素朴な気づきかもしれません。私のなかの、小説を書いているときにおける他者のイメージは、手紙で書いてくださったユダヤの神に近いかもしれないと思いました。書いているとき、私はなにかに対峙しています。神とは思いませんが、そういう言葉で表されることもあるであろう存在です。私が言う「他者がいない」はおそらくこの「何かと対峙する回路が十分に開ききっていない(まま書いてしまっている)」ということなのかなといま思いました。と同時に、私の感覚としては、読者に向けて書くという意識が皆無だったことに気づきました。そう考えると読者って難しいですね。なんのためにいるんだろう。たしかに自分の作品は読まれてほしいんですが、私の欲求としては「正しく読まれて」ほしくて、そうでない場合は「ありがとうございました」以外にあんま感慨がないかもしれません。それは私が意図した通りに読んでほしいという意味ではなく、つまり読むことを創造してほしいということなんだと思います。そして、そうした読者と出会えることは稀ですね(だから、打率を増やすために多くの人に読んでほしい、ということになるのだと思いますが)。ここまで書いて、昨日ある人から指摘されたことを思い出していたのですが、私は「みんなが創造することができると思っていて傲慢」だそうです。そのとおりだなと思いました。私は、誰しもが生まれたときから創造性を秘めていると思っていて、これはまあ間違っていないと思います。ただ、多くの人が創造しなかったりできなかったりするらしいです。興味がないか、特定の分野の創造に向いていなかったりとかで。これは私には衝撃でした。だから、私は「読める」ひとに読んでほしいけど、多くの読者は消費する以上のことはしないし、「読もう」と興味を抱くことも少ないし、「読める」ひとはもっと少ないんだなという発見がありました。もちろん「読める」けど私の小説にそのリソースは費やさないという場合もありますよね。そして、読むことと書くことは同じなので、私は読者に対して「書け」と欲求していたわけです。自分ができることはみんなもできると思っていました。

ここで、手紙に書いてくださったところとつながってくるのですが、つまり私は「どうでもいい」他者の存在が全く見えていなかったんだな、と思いました。そして、大多数の人は「どうでもいい」んですね。衝撃でした。今さら?という感じですが、私は小説を読んでもらうとして、読者のコマンドに「読む・正しく読む・読まない」しかないと思っていました。つまり責任を負うか負わないかがゼロヒャクです。でも実際は簡略化したとて「読む・正しく読む・消費する・読まない」くらいなもので、消費するの層が圧倒的多数だったんだ、と思いました。そこが見えていなかった。読むという行為にグラデーションがあったことを発見しました。

それで別のことも腑に落ちました。みんなストーリーに飽きていないんだなということです。創作指南本を手に取ると、いつも「三幕構成」だとか「主人公の葛藤と障壁」だとか「世界観の設定」だとか「ストーリーの類型」だとか、そういうことしか書いていなくて、なんでだろうと思っていたのですが、実はみなそういうふうにつくられた面白いストーリー(を任意のメディアで表現したもの)を欲していた(し、作り手側の大多数もそういうのがつくりたかった)のか、とやっと気がついたのです。どうやらみんなはそれで楽しめているらしいということをようやく知りました。なんか、自分だけ別のルールでゲームやってた、みたいな感じです。私のFFにはSF小説を書いている人やその愛好家が多いのですが、それまで感じていた軽い違和感のようなもの(SFである/ないということに関係なく「なんかみんなが好きなものに私興味ないかもなー」「私がめっちゃ面白いと思っているものへの食いつき薄いなー」など)も、私が前提としているものが違ったのかということでよくわかりました。

どうでもいい他者は気楽なんですね。

さすがに「そのへんのコンテンツより魚を見たりするほうが楽しいわ」とまでは思っていませんが、生き物の良さがどうでもよさだというのはよくわかります。私はわがままなのかもしれません。期待を裏切ってほしいんですね。なんか、五大文芸誌の公募とかで、どういうものを求められているのか問われて運営サイドが「新しいもの」みたいな曖昧な答えしか返せないの、そりゃそうだよなって納得しました。あと去年、日本ファンタジーノベル大賞に応募しようとして全然書けなかったんですけど、あれはエンタメの賞なので書けなかったんだなと思いました。長編だから書けなかったのだと思い違いをするところでした。全然違う競技だったんですね。そのへんが、恥ずかしながら全くわかっていませんでした。

まだ、方向性とかはわからないんですが、改めてがんばろう、と思いました。たとえば、どうでもよさこそ祝福であり、他者を真に「他者」とすることであるならば、書くことにもっと適当になったほうがいいのかもしれないといったようなことを考えました。書くことに委ねるというか。畑のことを考えています。ままならなさのなかでなんとかやっていく、ということなのかもしれませんね。

藤井より