亀の背中
志紀がわたしを呼びだすときは大抵ろくでもない用事だが、今回はちょっと度を超していた。
「できちゃったんだよね、宇宙……」
わたしは水槽の前で呆然とする。水槽の底には「兄さんが置いてった」というアミメニシキヘビがとぐろを巻き、鎌首をもたげた先で自分の尻尾を食んでいる。その上に、志紀が拾ってきたミシシッピアカミミガメがぼんやりと目を閉じて鎮座していた。亀の上には象が複数乗っており、さらにその上には見慣れた光景があった。地図帳で見るような地球そのものが、そこにはあったのだ。
志紀は亀を撫でた。亀は気持ちよさげにゆっくり目を見開く。そして非常にはっきりとした口調でこう言った。
「マカダミアクッキー」
「は?」
「マカダミアクッキー」
わたしは流石にのけぞる。まさか亀が喋るとは思わないし、亀が喋る言葉として想定される場所から最も遠くからその言葉はやってきた。
「みみちゃん、〝世界〟になってからマカダミアクッキーしか食べなくなっちゃったんだよね」
みみちゃんこと、五年前空き地にいたところを志紀に保護されたミシシッピアカミミガメは退屈そうに手足を伸ばした。時間が引き伸ばされた。亀の時間で、この地球は成り立っているのだということがわかった。人類は地球にとって速すぎるらしい。
「というわけで、マカダミアクッキー買ってきて」
「なんでわたしが」
「だって私は神としての役割を果たさなきゃいけないじゃない?」
志紀は亀の背中に現れた地球の、一部の陸地を指でくっつけたり離したりして遊んでいた。次第にそれは山脈となって隆起していく。
「はい、ウラル山脈のできあがり」
すっかり神さまごっこに浸っている志紀に少しむっとしつつも、志紀のつくる宇宙から目が離せなかった。
「そういえばこの象は何?」
「飴細工」
なるほどよく見たら透明な象だ。
「オーダーメイドでつくってもらったんだけど、偉いねってイチゴ飴をおまけでもらったよ。そこにあるから勝手に食べていいよ」
志紀が隣のリビングの方を指さした。
「人類ってさ、生まれるのかな」
「生まれるんじゃない」
「どうして」
「だって、マカダミアクッキーを食べるんだよ」
みみちゃんは人間の生み出したものを食べるんだから、人間が生まれなければ矛盾している。そう志紀は言った。
「そもそもこの、亀やら象やらに地球が乗ってる宇宙観だって、古代インドの宇宙観だったなんて言われているけど、結局それも後の創作なんだって」
もしそうだとするならば、目の前のこれは一体なんなのか。あまりにも正常に世界として運行しているこれは。
志紀がゆっくりと亀のいる水槽の水を掻き回す。その姿は国生みの神そのものだった。
「買ってきた」
セブンイレブンが徒歩十分ほどのところにあり助かった。玄関にとさりとレジ袋を置く。並べられているマカダミアクッキーを全て買い占めてやった。
「ありがとう我が友よ」
さっそく志紀が袋を開けてクッキーを一枚取り出す。そしてそのまま亀の口元に持って行ってやると、みみちゃん(世界)はもそもそとクッキーを咀嚼し始めた。リビングからテレビか何かの笑い声が聞こえてくる。
「本当に亀にこんなものあげていいの」
「本亀がご所望だからいいんじゃないの」
志紀は一枚自分の口にもクッキーを放り込む。
「マカダミアクッキーって重いよね」
「重い?」
「なんかさ、全部凝縮させました、みたいな質感してない?」
「それで宇宙の素になってるのかな」
よくわからないまま相槌を打った。
「つくるとこまで行きたいんだよね」
「というと?」
「マカダミアクッキーを、自給自足できるようになるまで」
ほら、ボトルガーデンって手を加えなくてもそのなかで世界が完結するじゃない、と志紀は続ける。志紀のつくった宇宙が、志紀を必要とせずに循環する。それまでは面倒を見てあげたいな。アミメニシキヘビとミシシッピアカミミガメと飴細工の象の背中で人々がマカダミアクッキーをつくるまでさ。
「そんなでっかいクッキーつくれるかなあ」
志紀の司る宇宙での縮尺を考えると、地球を載せた亀に食べさせるための大きさのマカダミアクッキーを地球(小さい)上でつくるのは到底困難だと思わざるを得ない。
「これまでのギネス記録だと、世界一大きなジンジャーブレッドマンは一四三五.二ポンドだったんだって」
「人類、やるじゃん」
「だからいつか、自分たちの住む惑星よりでかいマカダミアクッキーだってつくれると思うんだよ」
ついでにイチゴ飴も食べよっか、と言って志紀がリビングへと歩いていく。私はその後ろ姿を見送って、みみちゃんに乗っけられた世界を見る。
「そんな場所で身動きとれなくて、退屈じゃないのかね」
みみちゃんは何も言わない。マカダミアクッキーをたらふく食べて満足したのか、またうとうとしながら目を潤ませている。
志紀がイチゴ飴を両手に持ってくるのと同時にテレビから歓声が上がる。見ると、「世界一大きなマカダミアクッキー、ギネス記録達成!」と異国の人々が晴れやかな顔でインタビューに臨んでいる。
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