2024.03.04 余さんへ

2024-03-04手紙余さんへ,手紙

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お手紙をいただきました

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余さんへ

「よ」の通りとのことで、なんか嬉しいです。戯曲キャンプが昨日終了し、友人の家にチェックインして一息ついたのでお手紙のお返事を書くことにしました。期せずして旅をしてばかりになっていますね。伊豆大島は車での移動が一番便利そうでしたが、それが難しくなければ良い旅になると思います(私は免許を持っていないので友人頼りでした)。裏砂漠にはずっと行ってみたく、念願でした。素晴らしい場所です。危険な場所でもありますが。

戯曲キャンプ、非常に収穫の多い場でした。ふだん、戯曲とは何か、あるいは戯曲と小説の重なる部分とそうでない部分は何なのか、言葉とは一体何なのかなど、ある種抽象的な議論を交わせる相手というものが身近におらず、まず、その場に集まった全員と話が通じる、話していて楽しい、ということが新鮮でした。みな素敵な方々ばかりで、戯曲を書くコースであるにもかかわらず、劇作家の肩書の人がほとんどいなかったことも印象的でした。呼ばれている講師陣からも予想していた通りでしたが、やはり「面白い戯曲が書けるようになりたい」「戯曲賞がとりたい」といった人々のためではなく、言葉や戯曲というものに問いや可能性を抱いている人々が集められていたようです。多くのお土産を持ち帰りました。さてここからどうしようかと考えているところです。私はまだ全然意味をやっているなと思いました。意味を、というよりかはまだまだ噛み砕いているなという感覚というか。もう少し読み手に言葉を委ねても良いのかもしれないと考える良い契機となりました。あとは、自信を持っていいんだということを思いました。「藤井佯」という人間がアーティストとして肯定される場にいて、それまでいかに自分が遠慮していたかを思い知らされました。呼吸がしやすかった。非常に得るものが多かったです。

ワークの内容としては、まず事前課題として短い戯曲を一本書きました。そして初日にそれを全員分読んで、自分以外の戯曲を一つ選んでリライトを行いました。これが非常に勉強になりました。まず、自分が戯曲の形式であると思っていたものは非常に狭義なものであったと思い知らされました。それから、他者の書いたテクストをひたすら「読む」ということに徹した四日間でもありました。読まなければ書けませんし当然なのですが、読んでいる時間のほうが多かったです。最終日にリライトされた戯曲を一人ずつ読み上げていったのですが、どれも面白いアプローチがなされていて、優れたものに仕上がっていました。講義も、小説家、演出家、俳優、ミュージシャンと、一人も劇作家がおらず、しかし言葉というものに真摯に向き合っている方々で、非常に勉強になりました。

鬱病の薬が効いているというのもあると思いますが、戯曲キャンプでハイになり、元気になってきました。この調子でまずは故郷喪失アンソロジー、公募の数々などがんばっていこうと思います。

ふるさとについて。後方にあるふるさとからいでて、前方にあるはずのふるさとへと歩んでいくというイメージは私にもしっくりきます。無限回廊というのは言い得て妙かもしれませんね。バラムのことはまだよくわかっておらず、凡蔵稀男との共通点はまだピンとこないのですが、二人とも身体に穴が空いているというのはその通りだと思います。胎界主の第二部に出てくるのですが「方位は正しい、だが距離までは知れない」という言葉があり、私のふるさと(前方にあるはずのもの)への心持ちはこのような言葉で表されます。

継続して何かをやるということが苦手で、メギドも一時的にガッとやって数ヶ月全く触らない、といったプレイスタイルで、なかなかメインストーリーを読み進められないのですが、まあ気長にやろうと思います。

鳥と魚の話で、ちょうど余さんの考えているようなことを別の言葉で書いている短編があります。カーレン・ブリクセンというデンマークの作家の短編集『運命綺譚』に収録されている「水くぐる人」という作品です。私はこの小説が非常に好きです。特に好きな部分を引用します。

「わたしたち魚族は、四方八方から抱き支えられていて、水中ではすっかり安心して、むつまやかに休らっています。上下左右どの方向にも動けますし、どの道を行こうと、力強い水がわたしたちの価値を認めて、魚の形に応じて変身してくれます。ですから、自分たちが昇っているのか沈んでいるのかも全然知らず、いつもすっかり安定しているのです。」

この水くぐる人という話の核となる人物は、鳥になりたいと願っていた神学徒なのですが、最終的に彼は真珠採りになります。つまり、水くぐる人になるのです。そこでさきほど引用した魚の語りが挿入されます。絶版ですがそこまで高騰していなかったかと思いますし、図書館にもあるはずなので、興味があれば読んでみてください。

川には秩序があるというのは面白いです。私は海よりも川を好みます。線だから好きなのかもしれません。海は面ですよね。私は川を見にいくのがすきで(だから余さんもこの話を振ってくださったのだと思いますが)、なぜなのかわかりませんが、川を見ていると非常に安定した高揚感を得られます。河川敷が好きで、人々が川を支点にして運動をしている、川がある意味その人の行動を制限していて、人々はその制限に護られながらのびのびと過ごすことができている点、そのばらばらさが好きなのだと思います。川には鳥もいますしね。鳥もまた、のびのびと飛び回ったり泳ぎ回ったり、歩き回ったりしています。

鳥の身体をよく考えます。あのような、どこにもよるべのない身体というのはどのような感じなのだろうと。鳥は群れても個であるという感覚が拭えません。

私のつくった稀男ぬいぐるみを参考にされていたとは全く考えが及ばなかったです。ありがたいです。市販のぬいぐるみ本を初めて購入し、その本に付属していた型紙を使用したのですが、やはり顔を刺繍している時間が一番楽しかったです。二番目は、服の各生地をユザワヤで選んでいた時間でしょうか。刺繍は良いですね。脳が静まります。

人間みの薄さ、ということは薄々無意識下で感じていたことを指摘されたような感触があります。現代社会では、あるいは人間が誕生してからずっとそうなのかもしれませんが、やはり人間みの濃いものが人気な傾向があるような気がするので、どうしてもそちらに引っ張られていたかもしれません。会話に苦手意識があるというのは引き続き事実ですが、キャンプを通じての現在地としては「別にそれでもいいかもな」というところにあります。いまは、人間みの薄さをもう少し追求したいかもしれません。余さんの思う"人間みの薄さ"と私の感じているそれが同じものである保証は全くありませんが、おそらく言わんとすることはわかります。私は、一人称と三人称を書き分けることも苦手です。これはおそらく、会話文を書くことが苦手であることと通じているのでしょう。自他境界の薄さも関係していると思います。私のなかではすべてが根でつながっています。私は根元を取り出しています、それで、個が薄れてきます。

漫画を拝読しましたが、小説であれば地の文で表現されたかもしれない箇所が漫画という媒体でうまく昇華されていると思いました。あいにくストーリーはわかりませんでしたが、雰囲気が良いですね。「あなたのせいですよ、翅!」が良かったです。

鳩アンソロジーもご購入いただきありがとうございます。正直、一気読みはしんどい書物だと思います。適当なページを開くなり、一話ずつ読むなり、それなりの付き合い方を見出していただけると嬉しいです。

明日は、モダニズムの水平線という立命館大学で実施されるシンポジウムに参加する予定です。故郷喪失アンソロジーの参考になりそうな講演が多いため参加を決めたのですが、特に気になるのは石牟礼道子の脱近代についての基調講演でしょうか。苦海浄土は積んでいるので話がわかるかひやひやしていますが、とりあえず聴いてみようと思います。

大阪は少し暖かいですね、良き日をお過ごしください。

藤井より

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