2024.02.20 上雲楽さんへ

2024-02-20手紙上雲楽さんへ,手紙

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お手紙をいただきました

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上雲楽さんへ

「他者」は「ぐらぐらさせてくれるもの」という表現良いですね。「非常にはっきりとわからない」は私も行ったのですが、確かに「ぐらぐらさせられた」という表現が適切かもしれません。あと単純に、展示会場の居心地が良かったです。また、私について、自分の中の確信を文章にすることの比重が重いというのはその通りだなと思いました。やっぱ寂しいんでしょうね。どこかに同じものを見ているひとがいるのだと信じたいんだと思います。上雲さんの場合は、その「確信」を突き崩してくれる他者を求めているということで、読者へ向かうということなんですね。そこは明確に私とは違うなと思いました。「決定的に馬鹿な読者」を見ても私は「決定的に馬鹿だ……」としか思えないかもしれません。しかしここで私はとある漫画の一シーンを思い出します。Twitterなどで何度か言及しているのでご存知かもしれませんが、「胎界主」という作品です。できればネタバレしたくないシーンなので抽象的に述べますが、「正しい」ことをすべて見通すことができる存在が傍流と切り捨てた、その「決定的に馬鹿な」人間がなお、その息子に向けて「正しい」行いをなした様子を見て、「正しい」存在が「私は正しくなかった、この世界に必要なかったのは私のほうだった」と完全敗北を悟るシーンが終盤(第二部の。第三部は連載中)に存在します。「正しく読んでくれる読者」であろうが「決定的に馬鹿な読者」であろうが、人は何の脈絡もなく、否応なしに輝くときがありますよね。その輝きについては、掬い取りたいと感じます。

胎界主は分量が多いので人に勧めづらいのですが、本当に良い作品です。「難解」と言われますが、序盤ちょっと情報の出し方に作者が慣れていない(漫画というメディアにまだ慣れきっていない)だけであって、ストーリー自体は非常に分かりやすい作品だと思います。もし時間と余力があるなら読んでみてください。

価値の提示というところで、ノエル・キャロルが批評とは価値づけであるという定義を試みていることを思い出しました。価値の創発、止揚、と提示の間にどういった違いがあるのかまで私はおそらく理解できていないのですが、お手紙を読んでいて、保坂和志の小説の自由(だったか、三部作のどれか)に彫刻を見ることの話があったことも思い出しました。保坂は、小説は読んでいる時間のなかにしかないとしきりに主張しますが、彫刻を前にしたときの感慨についても同様に記述していたかと思います。批評にしろ作品そのものにせよ、ただ提示されることが尊いというのはその通りだと思います。

当該のツイートはこれかと思います。すみません、本当につまらない結論で申し訳ないのですが、私はそのICGというものを全く知りませんでした。ただ、「廃墟に描くものとして東方のアリスを選んで最後まで描いた人がいたんだ…」という良さに惹かれて、そして添えられた文章の感じ(「それにしてもすごく変わった画風だな…」)の良さを見出して「いいね」をしました。しかし描いた本人がICG姉貴?(少し調べたのですがあまりよくわかりませんでした…)というネットミームを面白がって描いたとなると話は変わってきますね。つまり「ピュアなままでいて」の意味を理解せず、スクショの内容の良さに惹かれていいねしたのですが、そうした事情があったとなると、なんにも面白くないですね。かなり失望していますが、教えていただきありがたいです。私は淫夢などのユーモアをやる人のことはけっこう見下しています。うん、私はかなり「面白くない」人を見下してますね……。なんか、そういう面白くない人たちにも人生があって生活があると考えると気が狂いそうになります。受け止めきれない。面白さってほんと人によるので結局「これは面白い」「これは面白くない」と個別に指さしていくことしかできず、私が何を面白く感じて何を面白くないと感じているかを総括して言うことができないのでちょっと卑怯な気がしますが、面白くない人にはどうしても厳しくなってしまいます。価値観の異なる他者を求めながらその愚かさや下品さを感じるとシャットアウトしてしまうことに欺瞞を感じる、とのことですが、その欺瞞は私にもあると思います。私の中では「面白くないものを見る」「面白くない人とつきあう」ことは「できなくはないけど非常に疲れる」ことに該当するので、なるべく生活の中から排除しています。そのため、道を歩いていたり、喫茶店で隣になったりして、「面白くない人」と突然の遭遇があるとけっこうびっくりしますね。そういえば私は自分のまわりを面白で固めているだけで、世の中って全然面白くないひとがこんなにいるんだった! ということに新鮮に驚きます。映画館とか美術館とか、特に多いですよね。性格が悪いなと自分でも思います。でもまあ、私は面白い人になりたいし面白いことをやりたいので、面白くない物事に割くリソースがないなと割り切っています。向上心があるんでしょうね。それが良いことかどうかはさておいて。

こういう話題だと木下古栗を思い出しますが、彼は彼で下品なものの面白がり方が上品なので、結果的に作品が野暮にならず、そのバランス感覚が優れているのであれをやれているということだと思います。脱色していると言いたいわけではなく、見せ方や切り取り方が上手いんですよね。反対に、切り取り方が下品で上手く行っていない作家もいますね。名前は出しませんが。

マルキ・ド・サドがそんなことを言っているのですね。不思議な感じです。保坂和志のポリシーには私も共感するところがあって、鳥を出すときには慎重になるのですが、これまですべての作品でそれを達成できたかと言われると到底そうは言えません。いま書いている小説では、鳥をストーリーの小道具や心情のメタファーにしないように描こうとしているのですが、とても難しいです。それをしていると、何かをストーリーの小道具や心情のメタファーとして用いる「テクニック」に対して、作り手の怠惰を感じざるを得ません。ちゃんと考えなくてもそれっぽい作品がつくれてしまいますもんね。別にそれをしてはいけないというのではなく、やるならやる理由を、やらないならやらない理由を答えられるようにしておけよ、ということだと思うんですが、それはとても大変な作業だと思います。一方で、私はそのマルキ・ド・サドの書いたセリフに同調はできません。私は自然を破壊したり侮辱したいとは思っていないなと気づきました。私が逆らいたいのは物語(因果と言い換えても)であって、自然ではないようです。

藤井より

𓄿𓅀𓅁𓅂𓅃𓅄𓅅𓅆𓅇𓅈𓅉𓅊𓅋𓅌𓅍𓅎𓅏𓅐𓅑𓅒𓅓𓅔𓅕𓅖𓅗𓅘𓅙𓅚𓅛𓅜𓅝𓅞𓅟𓅠𓅡𓅢𓅣𓅤𓅥𓅦𓅧𓅨𓅩𓅪𓅫𓅬𓅭𓅮𓅯𓅰

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