鬱の湯

Works小説

 極まってきてどうにもならなくなったので何か楽しいことはないものか、いやしかしそれをするだけの体力と気力はないといった状態で、ただなにをするでもなく虚空を見つめていた。そこに見かねた同居人が「銭湯行こ」と声をかけてきた。私はうーんと間延びした返事をよこした。行き方がわからなかった。トカゲが車の運転の仕方を思いつけないのと同じ具合で、銭湯ってどうやって行くんだっけと思った。「何が……いる?」と私はかろうじて聞いた。同居人はこらあかんわという顔をしたあと「ええから待っとき」と洗面所に消えた。「これがシャンプー、コンディショナー、洗顔料、化粧水」とジップロックに入れた小分けの容器を見せてくれた。「俺は今日は銭湯で借りるから、あなたこの銭湯セット使いなさい」
 それから着替えもいるのか? と気付いたので同居人つきそいのもと肌着とショーツを不繊布のトートバッグに入れた。あと剃刀も持っていくことにした。「ブラってせんでええか」と聞いた。外に出るにはブラをしなければならないが、ブラをするには一度上半身の服を脱いでブラをつけてからまた着る必要がある。その元気がなかった。「ええよそんなん、誰も気にせんやろ」と言われほっとする。目立たない乳でよかった。私は同居人につられるまま外に出て、歩いた。道すがら同居人は、「風呂に入ると、髪洗うときに頭皮をマッサージするから脳の具合も良くなるやろ」と言った。私はヒトはなぜ風呂に入るのかの一端を掴んだ気がした。
 機械的に服を脱いだ。みんな陰毛を生やしていてだらしない体つきをしているので元気がでる。まず体を洗う。赤いのと青いのと、両方のカランを同時に押すとちょうどいいぬるさのお湯になった。シャワーは固定されていて、でもレバーも固定式だったので、すすいでいる途中でお湯が止まるといったこともなくて快適だった。陰毛を剃った。久しぶりだから少しヒリヒリした。洗い終わってとりあえず一番スタンダードっぽいお湯に浸かった。適温だった。少し熱いかなくらい。穴蔵のように凹んでいて、居心地がよかった。ぼーっと浴場内を見回していると露天風呂を見つけた。ちょうど建物の中央が吹き抜けになっているらしい。横にスライドする扉を開けると、逞しい体つきの人が入浴していて一瞬身構えた。女性だった。まんまるい体型の肉ばかり見慣れていたので、馬のような筋肉のその人にも女性器があるのかを確かめてしまった。失礼なことをしたとすぐに反省した。それにしても、あまりにも体が引き締まっている。アレキサンダーと呼ぶことにするが、アレキサンダーは五十代くらいで肌は浅黒い。打たせ湯に背中を打たせて険しい表情を浮かべている。私は打たせ湯とは反対の方のふつうの露天風呂に身を沈める。岩の配置がちょうどよく、磯の魚になった気分で安らげる。アレキサンダーが出ていったあと、私も打たせ湯に向かった。それから、同居人の言っていた頭皮のマッサージのことを思い出して、頭をまんべんなく打ってもらった。
 露天風呂は少し熱いも外気が涼しいので体に寒暖の層が形成されるのが正しく、また空が見えて気持ちが良かった。雨が降っていればさらに良くなっただろう。少しのぼせてきたので屋内に戻り、そこで私は良いものを見つけた。「低温風呂」。なんと魅力的な響きであろうか。備え付けられた温度計を見ると三八度ほどに設定されていることがわかった。ちょうどいい湯温だ。さらに素晴らしいのはゆるやかな傾斜がついた浅い風呂であることで、そこからぶくぶくと泡がぼこ立っている。私は浴槽に身を預けた。ちょうど頭部に金属製の円柱を寝そべらせたものがあって、そこに頭をもたれさせて、首から下は浅く全身が浸かったようになる。ちょうどオフィーリアの体勢だ。どれほどそうしていたかわからないが、この体勢に飽きるということが全くなかった。私は、そこから完全に起き上がることができなくなってしまった。
 天井を見ながら、この状況を演劇で再現することはできるだろうかと考えていた。まずゆるやかな台を用意すれば体勢は再現できるだろう。それから絶え間なく流れるボコボコという水の音。寝そべられるコーナーは左右に二箇所あるから、右にいるのが私として左にもう一人来てもおかしくない。そこで会話が生まれればさまになる。しかしそこまで考えて、演者は裸なのか? という当然の疑問が頭をよぎった。それに、声にはリバーブがかかっていなければそこは浴場ではなくなってしまう。浴場を舞台で再現するのは思ったより難しいかもしれない。演劇を裸でやってよいのならまだやりようはあるかもしれないが……。そこまで考えたところで「すみません」と声をかけられた。アレキサンダーだった。「一度でいいんで、そこ代わってくれませんか。隣だと耳に水が入ってそれが嫌で」私はそのときすでに三十分以上その低温風呂に浸かっていた気がするから、本当はそのタイミングで上がるべきだったんだと思う。しかし「代わってくれ」という言葉がやけに耳に残ってしまい、「いいですよ」と言ったあと、私は隣の寝そべり処に移動した。アレキサンダーは「ありがとう」と言って私が寝そべっていた場所に寝そべり始めた。私はアレキサンダーの隣で寝た。ずっとボコボコ音がしていて、気まずさはなかった。アレキサンダーにも陰毛は生えていなかった。私は完全に外へ出るタイミングを見失ったので、このまま風呂の主になった場合を考えることにした。長として神託を行う。ただの一度も浴槽から出たことがない。しかしそうすると糞尿といった類のことはどうするのかという問題が出てくるので、風呂の長も楽ではないなという結論に達した。そうこうしているうちにアレキサンダーが風呂から出ていった。「ありがとねえ」と再度お辞儀をされた。私はひとり低温風呂に取り残され、自分の体温が湯温と混ざり合ってくるのを感じながら、どうしたらこの風呂から出られるのかを考えていた。幸いまだまだ時間はあった。湯上がりのコーヒー牛乳を想像して、ありえなかった時間を思った。本当はここで死んでいくのかもしれなかった。低温風呂が多くの銭湯で採用されていない理由を悟った。これまでで運良く低温風呂から這い上がれた人間たちの番になって、低温風呂は危険だからと風呂の温度が軒並み上げられたのだ。過激派は水風呂をつくった。私はここで終わりそうだが、アレキサンダーの番になったら、この風呂の温度を上げてくれるかもしれない。そうしたら、私はいずれこの風呂から出ていくのだろうか。もしくは、氷でもいれて、浴槽ごと冷やされるかもしれない。アレキサンダーが穏健派なのか過激派なのか、少し話しただけではわからなかったなと思う。
 オフィーリアはあれが人間のもっともおさまりの良い形なのだと知っていたのではないか。あれはヒトの「つい」だったのだ。意思というのはわけのわからないもので、予測できないタイミングでスイッチが入る。たまたまそれが発生し、私は突然、手すりを掴んだ。そしてその勢いのまま、低温風呂から上体を剥がした。私は大きく息を吐いた。自分にまだそのような力が残っていたとは、どだい信じられなかった。しかし風呂から脱出するためにはもう一段階ステップがある。下半身を剥がすことだ。もちろん、その前に再び上半身を倒してしまうこともありうる。どちらの可能性も、等しく私の前に開かれている。
 私は低温風呂に座り込み、しばらくそのまま時を過ごす。泡の音は絶えない。遠くで桶の音が響いている。女たちの肉が揺れる。外では同居人が、風呂上がりのコーヒー牛乳を飲みながら、私が女湯から出てくるのをぼんやりと待ち続けている。