落下と旋回

Works小説

 遠くから波の砕ける音がする。空は高く、黄色い凧が飛んでいた。凧糸を辿ると、子どもが走り回っているのが見えた。
 草原を歩いていた。見渡す限りなだらかな丘だが、果てまでゆくとぶつ切りの断崖絶壁が広がる。崖を、目指している。シャツの裾が海を渡る信号のようにぱたぱたとはためいている。
 みずみずしい緑の中で、陽に照らされた土色の物体を見た。はじめ、奇妙な石だと思った。しかし近づくと、わずかに蠢いている。流線型の美しいフォルムに、ところどころ白い模様が浮き上がる。翼がある。尾が二つに割れていた。目が合った。
 アマツバメだ。
 ちょうど今ごろ渡ってくるのだ。アマツバメは、一生のほとんどを空の上で過ごす。寝る時でさえ、つがう時でさえ、虚空が彼らを取り囲んでいる。彼らは崖にしがみつくことはできても、地面に降り立って歩くことはできない。そう進化してきたのだ。生まれて死ぬまで、彼らは重力に抵抗する。よってこのアマツバメが堕天したのは、きっと何かの間違いだったのだろう。いま、この鳥は、あまりにも無力だった。その場から動くことも、助けを呼ぶこともできない。地べたから見た空はあまりにも高く、青く、恐ろしいだろう。
「君は運が良いよ」
 鳥ははじめ警戒していたが、両手を差し出して包み込むと、素直にそれを受け入れた。アマツバメは漂流する。その流儀は地に堕ちてなお守られる。アマツバメの脚を、そっと手の甲に引っ掛けてやった。不安定な足場だろうに、アマツバメは器用に指の間に爪を挟み込み、風を読み始めた。沈黙。波の音がさあさあと軽やかに鳥を催促しているようだった。
 ビュオッ。
 アマツバメは飛び立った。
「あっ」
 遠くで子どもの声が聞こえた。手を離してしまったらしい。凧が放たれる。アマツバメはしばらく凧と並んで飛び上がり、それから一度大きく旋回した。目を細めて見送った。再び地上に降り立つときは、その命が果てるときに違いない。
 胸ポケットにノートの切れ端が入っていたのを思い出し、腰を下ろして紙飛行機を折った。ビュオッ。ちょうど強風が吹いて、紙飛行機は海上に躍り出た。そのまま凧を、アマツバメを追って、悠々と飛び、やがて見失った。うまく飛んだことに、なぜか無性に腹が立った。私は立ち上がり、尻についた草を二、三度叩いて落とすと、ポケットの小銭を子どもにやった。凧だけは買うなよ、と釘を刺し、そして足早に草原を後にした。

                         (了)