AAF戯曲賞関連プログラム2024『戯曲/演出 集中キャンプ』参加記録(2024.02.29-2024.3.3)

Diary戯曲キャンプ,日記

https://www-stage.aac.pref.aichi.jp/event/detail/001208.html

Twitterでいぬのせなか座の山本浩貴さんをフォローしているのだが、山本さんがRTしていたのでキャンプの存在を知った。

あまりにも尖っていてびっくりした。参加料が安すぎる。35歳以下が若手カウントになるというのも新鮮だった。あまりにも興奮してしまい、すぐに志望動機を書いて送った。戯曲コースを選んだ。2月上旬に、来ていいですよというメールが返ってきた。さっそく宿や名古屋への交通手段を手配した。

戯曲は読んだことも書いたこともない。演劇もそんなに。小林賢太郎がやってたカジャラや、大学の先輩等の劇団、あとヨーロッパ企画の何か、などを少し観たことがあったかな程度である。手元にあったのはカジャラのときに購入した上演台本だけ。事前課題で、戯曲を5ページ書いてくるように言われ「未完成でも出してください」の一言に甘えて2ページだけ書いて未完成のまま出した。本当は完成させたかったが私生活がそれどころではなかった。もう一つ、初日の講師である温又柔さんの講義にあたって「最古の会話の記憶を400字以内で書く」という課題があり、そちらのほうにも難儀した。

プログラムは4日間にわたって行われる。2月29日〜3月2日は13時から20時まで、最終日の3月3日は11時から20時までの予定だった。そして、日替わりでゲスト講師がおり、講演を聴くらしい。事前にわかっていたのはそのくらいだった。

2月29日(木)13:00-20:00

12時半ごろに会場につき、まだスタッフしかいない。黄色いスカーフを巻いている眼鏡の男性がおり、この方がナビゲーターの萩原さんだとわかる。いくつか世間話をする。13時になって、会が始まる。まずは諸連絡や説明。興味深かったのが、戯曲コースでやりたいこと、のスライドだった。

戯曲コースでやりたいこと

1.今後、戯曲をつくっていくにあたっての視点を養う。

2.自分がどんな作品を作りたいのか、作家性を自覚する。

3.これからの戯曲を生み出す仲間づくり。

(仲良しになる必要はないです)

嬉しかった。仲間がほしかったので。美大や芸大に通っていたわけではないので、創作をしている友人が周囲にいない。小説を書いているため、SNSのフォロワーには小説を書いている人が多いが、まだめちゃくちゃ仲良しになれたなって人はいないし、あまり仲間という意識がなかった。仲良しになる必要はないと前置きしながらも、確かに「こういうことを考えて創作をやっている人がいる」のだということを実感できる場になるのかと思うと、非常にわくわくした。

自己紹介の時間になった。参加者は全部で8名。最大8名が限界かなという運営側の判断でそうなったらしい。倍率はそこそこ高かったようだ。以下に書くのは私のメモに基づいたもので、そのままの自己紹介がなされたわけではないが、この記事を書くにあたって必要になりそうなので少しだけ他の参加者についても書いておく。ちなみに、座っていた席の場所で人物を記憶しているのでその順番に記述している。嘘書いてたらごめんなさい。

Aさん:本をよく読む。批評や創作など形式問わず、何かに触発されてそれに応答するためのサークルを結成していたという(概念的すぎて空中分解したらしい)。Cさんと知り合い、40代で最年長。
Bさん:20代。最近劇団を立ち上げた。劇団という枠にとらわれないことがしたい。戯曲は何本か書いたことがある。
藤井佯:20代後半。戯曲は読んだことも書いたこともない。小説を書いている。
Cさん:大学で演劇出る方をやっていた。とある自治体の文化財団に勤務している。自分史の収集を(その施設で)行っている。
Dさん:30代。演出やファシリテーターをやっていた。最近は街のリサーチにハマっている。
Eさん:20代。劇作家。劇団をつくりたいと感じている。高校時代がSEALDs全盛期で、その影響で大学時代は政治への若者の参画を目的としたサークルに所属していた。
Fさん:20代。芸大の院でインスタレーション展示をやっていた。学部時代に戯曲を書いたことがある。修論ではインスタレーションの演劇性について書いた。
Gさん:20代。美学専攻の大学生。美術批評や映画製作に興味がある。「言葉大事すぎる……」と思い参加を決意した。

そんな感じの8名で4日間を過ごした。ほかに、ナビゲーターの萩原さん、愛知県芸術劇場の山本さん、そして4日間の記録をとってくださったインターンの方などスタッフが数名いらっしゃった。

自己紹介は苦手なのだが、たとえば「●●が好きです」とか「●●出身です」とか、そういうことを言わなくてよくて、自分の参加の決め手とか、ふだんどんなことをやっているとか考えているとか、そうした自己紹介だったのでとても喋りやすかった。思った以上に劇作家が少ないことも印象的だった。特に私とFさんは演劇にほとんど触れてこなかった人間だった。萩原さんが言うには「言葉」ということと「戯曲」ということに対して、疑いと問いと可能性を抱いていそうな人を志望動機を読んで匿名でピックアップしたとのことで、こうした人選になったらしい。1分もかけず衝動のままにダーッと書いたものだったので、志望動機そんなに大事だったのか、よく通ったな……と恐縮した。

15時からは小説家の温又柔さんの講義があった。温又柔さんが講師で来られると知って、私は事前に『台湾生まれ日本語育ち』を読んでいたのだが、それが結果的に良かったのかどうかはわからない。本に書いてあった温さんの生い立ちをあらかじめ知っていたことがどう作用したのか判断を下せずにいる。ただ、温さんの口から語られる言葉は非常に練り上げられていて、鍛え上げられた筋肉のようなしなやかさを持っていたことが印象的だった。温さんは台湾生まれで3歳のころに東京に移住した。両親ともに台湾人で、家庭内で話される言葉は台湾語や中国語だった。一方で幼稚園や小学校で言葉、そして文字に出会って豊かな日本語の世界にのめり込んでゆく。詳しくは先述の著書を読んでいただきたいし、このレポートでは温さんの講義の良かった点について十分に伝えるのが難しい。何度も問い直し、語り直し、書き直してきた言葉が話されていると感じた。国語、の英訳がわからなかったという話が示唆的だった(Japanese、私の「国語」ってJapaneseだったの?という驚き)。名前が「温又柔」であることから日本人からは「日本語お上手ですね」と言われ、中国語を学んだら「訛りがある」「台湾人にしては中国語下手だね」と言われる。どれにもぴったりと当てはまらない私が、私のものではないらしい言葉、「日本語」で表現してみよう、というところから小説を書き始めたという。温さんが影響を受けたというリービ英雄の言葉も紹介されていて、それもとてもよかった。「『アイデンティティー』は、自分の方から自然に問い出す問題ではない。『向う』から襲ってくる問題なのである。」「書くということは略歴との戦いである。」温さんの話を聞いたあと、各々コメントをしていく時間。結局17時終了予定のところを、18時近くまでお話ししていただいた。事前課題の「最古の会話の記憶」がどれも面白かった。興味深かったのは戯曲形式で書いている人とエッセイ形式で書いている人にわかれていることだった。私は後者だった。以下のようなことを書いた。

英語の先生にこう聞かれた。

「What’s your dream?」

それで、私は自信満々にこう答えた。

「I wanna be a Hollywood movie star!」

いつごろかは覚えていない。幼稚園に通っていた間のどこかだったと思う。実際「一番古い」会話というとどこまでも遡れてしまうし、これが最古では全然ないと思う。しかしなんとなく印象に残っているのはこの会話だ。

親の方針で、「英語の幼稚園」に通っていた私は、3歳から5歳の間に英語の先生(カナダやアメリカやオーストラリアから来ていた)と交流し、英語の絵本を読んでいた。そのおかげでずっと英語は得意だったけど、喋れはしない。今振り返るとテストで有利になる程度だったと思う。でも、英語の幼稚園は楽しかったし、けっこう無敵だったと思う。ハリウッドムービースターになりたい、というのも、誰かに言わされたわけではなく割と本気で思っていて、実際に文化祭の劇では主役を務めることが多かった。他の子のセリフ(もちろんすべて英語だ)も覚えていた。マリア様もやったし、女海賊もやった。本気でハリウッドムービースターになれると思っていた。英語の先生の返しは覚えていない。でも、喜んでくれていたと思う。その後、ハリウッドムービースターになるには運動ができないといけないらしいと知って諦めた。幼稚園児には苦渋の決断だった。

これに関連して、お話を聴いていて思い出したことがあったので温さんにお話しした。幼稚園を英語のある環境ですごした私だが、小学校進学後もその幼稚園には英語塾として通っていて、そのときの話だ。小学4年生のころ、クリスマスプレゼントがセキセイインコだった。それが嬉しくて、私は当時の英語の先生に「インコを飼うことになったの!」と英語で言いに行った。すると先生は「Oh! Lovebird?」と聞いてきた。ラブバードというのはコザクラインコやボタンインコなどを指す言葉である。私はそのことは知っていたものの、はたしてセキセイインコを英語でなんて呼ぶのかまでは知らなかったため、「So……yes!」とラブバードであることを肯定した。つまり、先生の頭の中では私の飼っているインコはラブバードであり、私の頭の中にはセキセイインコのイメージが浮かんでいるという、双方で思い浮かべているインコが異なるという状況に陥った。しかし、インコを飼っているという大意は伝わっていて、会話はなんか上手く行っているため「違うけどまあいいか」ということになり、結局先生の頭のなかでは今でも私の飼っているインコはラブバードなのだ、という話である。温さんはとても興味深く聞いてくださりありがたかった。それと同時に、なぜ「戯曲」を書くコースに温さんが呼ばれ、私たちは温さんとお話ししているのか、ということは考えた。文字と声の重なる部分とそうでない部分、言葉とは一体何なのか、伝わるということとそうでないということはいかにして可能なのか、ということに目を向けてほしいということだと理解した。私は日本語ネイティブで、日本人で、生まれたころから日本語に囲まれて生活しているうえに日本語で小説を書いている。そういう状況では当たり前に見過ごしてしまうかもしれないことがありそうだった。なぜ英語で書かないのかと言われると答えられる気がしない。なぜ私は日本語で喋り、日本語で思考をし、日本語で書いているのか、そうした問いに直面することとなった。答えは四日間では出ないだろう。

18時からは、各々が事前に書いてきた戯曲を読む時間となった。なんと、他の人が書いてきた戯曲を四日間で「リライト」することになるらしい。最終日に音読による発表が控えている。リライトを通じて、戯曲を読むということ(読まなければリライトできないので)、書いてしまったことや書かざるを得ないこと(自身の作家性)、を発見していくということが趣旨だった。各々、第一から第三希望まで「リライトしたい戯曲」を決めていく。単純に、目の前に戯曲が8本もあり嬉しい。度肝を抜かれた。私は戯曲というものをあまりに狭く捉えていたのだということがわかった。ちなみに、誰がどの戯曲を書いたのかは最終日まで明かされなかったので、この記事でも最初は戯曲のタイトルと特徴だけを列挙していく。

①武器:冒頭にノートがついている。千葉県八千代市周辺で関東大震災後に朝鮮人虐殺が発生したことについて。人物は叔母、娘、地主。終始このような調子で続く。地主「ばかさみいでございまさあね。なぎの原に来てみました。(中略)瘴気もらえる!瘴気もらえる!てかまあげる!明日は雪だあ。」、娘「九月、東京の路上でサーフィンねっ!人波おしわけて明るい方へいこうねっ!」。最後に「虐殺はなかった。」で締められる。私はこの戯曲を第三希望にした。「虐殺はなかった。」と言ってしまう危うさと、それでもこの戯曲でやりたいと試みられていることについて自分で考えてみたかったからだ。登場人物たちの発言は支離滅裂だが、よく読むと連想が発生していることはわかるので、紐解く作業が楽しくなりそうだと思った。

②Accept all cookies?:自身のクッキーをモチーフにしたインスタレーション作品<Accept all cookies?>に用いたキャプションをもとに執筆された戯曲。作品の画像が添付されている。三つのオブジェが型抜きクッキーの制作過程から着想を得て作られている。人物は、①(テキストを発声する、実体が必要)、②(テキストを発声する、実体があってはいけない)、③(テキストを表示する、モニターなど)。①「たんじょう おめでとう はかられて つくられた 選ばれた君はいくつかの1つ ……てか、どこかで会ったっけ? はじめましてじゃ 無い気がするね」、②「とつぜんの遭遇 ちょっとso bad」、③「Accept all cookies?」といった調子で展開する。末尾に<Accept all cookies?>の制作報告書から抜粋された説明文がついている。それで、私は第二希望にした。二番目だったのは、制作報告書の文章がついておりヒントが多いため。会話は意味深に進んでいくが、言わんとすることが理解できるためリライトしやすそうだと感じた。

③新しい朝:家族A、家族B、親族C、親族Dが登場する。セリフと言ってよいのかまずわからない。舞台は病院、葬儀場、葬儀場休憩室、火葬場、火葬中、といった具合に変転する。たとえばこのような形。病院:家族A「台座はあるが像は象らない。そのやり口で、全くやったことのないニュアンスを立ち上げろと課される。どう立ち上げるかが肝となるだろう。医療現場で人が旅立とうとする間際、博士と泥棒だけは立ち会ってもいい。(中略)エネルギーと情報の互換性についてをまだ手探りすらできないからまず、本を山ほど買い揃えたくなる。」私はこの戯曲を第一希望にした。意味がわからなかったため。しかし、わからなさはわかりやすさでもあり、どうとでもリライトできそうだと感じてしまった。今思えば、私はリライトしやすそうなものを選び取ろうとしていたなと感じ、少し反省。

④遠吠え:主人公は男と女。マッチングアプリで出会った男女が「クドナル」(マクドナルドのことを女性はそう呼ぶ)に行く。男のほうは狼男である。男「すみません。遅れてしまって」、女「大丈夫です。想定済みなので。」、男「想定済み?」、女「プロフィール欄にハッシュタグ、遅刻癖とありました。」、男「あー。書いておくもんですね。」このような調子で続く。比較的わかりやすいし話の筋も見えやすいが、要所要所でわけのわからない箇所が発生する。それをどの程度まで解釈するかが難しそうな戯曲だった。

⑤転送:登場人物はA、B、C。おそらくBは男性。公園にあるよくわからない台に、トクホの人型マークのポーズで乗ると異世界に転送されるという設定。Aは異世界からこの世界に帰還中で、そこにAの恋人Bが通りかかる。そして全く関係のないCがやってきて、転送中で動けないAと、Aを連れ帰りたいB、なぜいるのかわからないCとで会話劇が進んでいく。最終的にAはBに別れを告げ、Cは異世界に興味を示し転送されはじめ、Bも異世界に行くためCの転送を待ち続けて終わる。ここまででわかるように、あらすじが「書ける」。ストーリーラインも美しく、会話も面白く、オチも綺麗だ。正直、リライトするところがないと感じたので一番やりたくないと思った。

⑥ケア:登場人物はA:男性、B:女性、C:店員、ヨウム:鳥。設定は鳥カフェ。鳥カフェに来たAとB、それに対応するC。ヨウムのケージは舞台シモ手側に置かれている。AとBはテーブルに呼び寄せる鳥をメニューの中から選ぶ。その過程で、「ケアの押し付け」という言葉が登場する。BがAに水を注いだときに「ああ、また女性にケアを押し付けてしまった」と言う。そして、話題は「ケア」という鳥(ミヤマオウム)に移り変わり、次第に「ケア」という言葉がクロスオーバーしていく。未完。お察しの通り、私が書いた戯曲。未完のものはこの作品だけだった。自分のものなので特にコメントはない。

⑦私家版 2024/02/09:舞台は冬、どこかのカフェ。カフェの描写が細かい。客1、店主、編む人、M、客2が登場する。喫茶店の常連同士の会話。さらに二階にも別の空間があり、そこともゆるやかにコミュニティが形成されている。パレスチナについてのデモの話題が登場する。店主「でもそれ所さんらしい話」、客2「かわいかったんですよねー」、編む人「似合ってますよね、それ」、店主「イヤホンの時も実は気になってました」、客2「あぁ。見に連れていきたかったんですよ。だから」、店主「えー。あ、写真撮ってお店のアカウントに上げてもいいですか?」といった具合で、内輪での共通理解のために省略された語句が多い。少し生々しさを感じたので、本当にあったことを書かれたのかなと思った。これもリライトがかなり難しいなと思った。というのも、私の中に存在しない引き出しを使って書かれている気がしたため。

⑧小編戯曲:「私たちが「ルーツ」を持つ場所や、物事があるべき場所にあるときの光や音や感触の味わいは、私たちの平穏の源泉である[ブラウワー1971]」から始まる。舞台が三種類、ワンルーム、三軒茶屋 都営下馬2丁目団地、三軒茶屋 ネイバーフッドセンター。ワンルーム以外は写真がつけられている。セリフというか、登場人物が存在しない。エッセイのような小説のような、独白のようなテキストが書かれている。「周囲を鉄板で覆われた工場現場の前にいる」、「運動会は、我が27号棟の真裏にある洗面所前の広場、といっても兵舎を取り壊した跡地で行われました。」など、複数人の記憶が入り込んだかのような文章。これもけっこうリライトに難儀しそうだなと感じた。

各々読み終えて、どの戯曲をリライトしたいか手を挙げていった。私の「ケア」に挙げたのはEさん一人だけで、すんなり決定した。一方、私が第一希望に挙げていた「新しい朝」は3名希望者がおり、「Accept all cookies?」も3名と、人気が集中した。私はじゃんけんに負け続け、一番リライトしたくないと感じていた「転送」のリライトに決まった。重ねて言うが、リライトしたくないというのはネガティブな意味ではなく、完成度が高すぎて手の入れようが思いつかないのだった。それぞれ、下記のように担当が決まった。

①武器:Gさん
②Accept all cookies?:Dさん
③新しい朝:Cさん
④遠吠え:Fさん
⑤転送:藤井
⑥ケア:Eさん
⑦私家版 2024/02/09:Aさん
⑧小編戯曲:Bさん

一日目はここまで。明日から、リライト作業に移ることになる。ここで質問が出た。持ち帰りの作業、リライト作業をする場所などのルール作りについて。この件についてはまた次の日に話し合うとして、その日は解散となった。
毎日、一日の終わりに付箋に思ったことを書き、それを順番に発表しあうことになった。

3月1日(金)13:00-20:00

13時から15時までがリライト作業にあてられていたが、冒頭30分ほど、「戯曲と小説の違い?」とか「戯曲とはなにか」といったことについて思うことなどを順番に発言する時間になった。そこで、萩原さんが仰っていたことが印象的だった。「質問は無理してしなくていい」「すぐに感想を言おうとしなくてもいい」、なぜならそうしてしまうと言葉マッチョが有利になってしまうから。ということで、言葉マッチョではない私にはとてもありがたかった(口から音を出すこと、というか考えながら喋ることが私は不得手である)。15時までリライト作業になったが、転送をリライトする意味がわからず、このままだとリライトするためにリライトするはめになってしまうと危機感を抱いて萩原さんに相談した。どこが印象的だったか、やどこが自分ではこうしないと思ったか、など質問をもらい、「いま全体の印象を見ているけど、もっと細部から読んでみてはどうか」と提案をいただいた。この時間は、転送を読むだけで終わった。

15時からは、Shankar Venkateswaranさんという演出家の講義だった。英語で、通訳ありで助かった。比較的聞き取りやすい英語だったが、語っている内容が抽象的になりやすいため通訳さんがいて助かったし、私も少ししか英語で喋れなかったのでコメントや自己紹介にところどころ日本語が混じった。シャンカルさんについては、国際交流基金アジアセンターのインタビュー記事が詳しい。シャンカルさんは演じるということには9つのステップがあるのではないかと語り、議論のたたき台にしてほしいと言ってそれぞれの段階について説明しはじめた。
1. self: understand myself, what I am, when nobody looking at me, I feel myself. 誰もいない部屋
2. go outside, play a role
3. performance: 複数の人間に見られている
4. imitating, transform: 変容、mimicry, but still 'I’ am imitating something
5. iconic: ヒゲをつけてヒトラーのモノマネをする、外見的特徴だけを持ってくる
6: act in character: inner transformation, I’m not not ◯◯.トム・ハンクスはフォレスト・ガンプではないわけではない。
7: mask, make up: It’s not me.
8: ritual, trance: 形式がある
9: madness: 外からのドアが閉められた状態?形式がなくなる
また、制作した舞台について、カースト制を取り上げた2名の役者が登場するものなのだが、AとBは共通言語をもたない俳優だったという。つまり、やりとりは英語でなされたが全員のバックグラウンドが異なっていた。カースト制というものについて、カースト制とA、カースト制とB、AからB、BからAの4つの関係があり、それをふまえたうえで演出する必要があると語っており興味深かった。シャンカルさんの講義のあと、萩原さんナビゲートのもと参加者同士でコメントや感想を語り合ったとき、岸田戯曲賞を受賞した「ブルーシート」などの話題も出た。主に議論になったのは、8や9の境目についてだった。シャンカルさんは9をあまり良くないことのように捉えていたが、実際のところどうなんだろう、ということなど。私は、9の「外からのドアが閉められた状態」について気になった。英語でどう言っていたかは忘れてしまったのだが私にはそう聞こえ、他者からドアを閉められて道をうろうろさまよっている状態であるというふうに理解した。ほかに、9と1は実は円環になっているのではという意見も出てアツかった。

休憩の間、Fさんに誘われて軽食を食べた。インスタレーションをやっているというFさんは「絶対私の戯曲どれかバレてますよね」と言った。自己紹介でインスタレーションの話をしていたので仕方がないと思う。演劇やってる人ばかりで申し訳ないね〜みたいな話で盛り上がったが互いに互いがいてよかった〜となっているのは明白であり、ありがたかった。私の戯曲もFさんにバレていた。「好きなものが出てきませんか?」と聞かれた。温さんにセキセイインコの話をしていたので気がついたらしい。

19時まで再びリライト作業になった。昨日言っていたルールの件だが、愛知県芸術劇場の建物内にはいること(外には出ない)、部屋を複数用意しているのでそちらは使ってよいこと、今いる部屋は喋ってもいい部屋とすること、持ち帰り作業は各々に任せる(全く強制しない)、戯曲のタイトルはそのまま引き継ぐ、などが決められたので、それに沿って動く。私は基本的にはずっと同じ部屋にいた。どうにも悩んだが、とりあえず写経をしてみるしかないと思い、そうしてみたところ「私だとそうは書かないかな」というところがちょくちょく出てきた。何か掴めそうなところでちょうど時間が来た。キーボードに向かうと「書けてしまう」ことの危うさも感じたので、ちょうど良いタイミングで中断されたことに安堵した。持ち帰りで作業は別にせんでええか、と思ったので、リライト作業は明日に持ち越しとなった。

3月2日(土)13:00-20:00

13時。そろそろ疲れも出てくる。私はここ2日間、午前中はベッドから動けなかった。いつものように、戯曲とはなにかなどをブレイクとして30分ほど話す。昨日のシャンカルさんの話なども踏まえて。15時までリライト作業。書けた。一時間ほどで書けてしまった。スタッフの方に頼んで、印刷してきてもらう。紙で見ると改めてここはこうしたほうが良いのでは?が出てくるのでブラッシュアップを進めていく。15時からは、俳優の竹中香子さんを講師に迎えてお話を聴く。パリの演劇学校に通って現在もパリに在住されているとのこと。パリの演劇教育がすごくしっかりしていてびっくりした。インディペンデントなものが育たなくなる懸念もあるが、そこはまあ良し悪しということで、実際に学校の授業はハードだけどそうとう手厚くて、卒業後も公の仕事が多いようだった。竹中さんは俳優として、what I am とwhat I do, what I thinkを切り離すことが大切と言っていた。提案を否定されているのであって私を否定されているわけではないということを肝に銘じておく必要があるとのことだった。日本にいる間は、とにかく演出家の言う通りにしなくちゃという具合だったが、パリへやってきたら「自分のこだわりや好き」なものについて多く問われる機会が多くなったという(私は恥ずかしながら、日本演劇界の権力勾配についても無知だったのだが、演出家はかなりの権力を有してしまう立場のようだった)。竹中さんに自己紹介をしたのだが、その方法が「できることを20個おしえてください」で面白かった。ほかの参加者のできることを知れたのも良かったし、人によってかなり書き方に性格が出ていてよかった。興味深かったのは、アレクサンドランというフランスの詩についての話だった。12音節詩行で、6音節・6音節でひとまとまりになっているという。タンタンタンタンタンターンというリズムで韻も踏みながら口ずさんでいく。面白いのが「無音のe("e muet")」という概念で、たとえばPrinceという言葉は通常フランス語では一音節になるが、アレクサンドランでは二音節として発声するらしい。この「eになにか宿る」らしい。竹中さんが、「文体」から演技をするということをアレクサンドランで実践してくださり、それが楽しかった。「eが多い部分は気持ちが高まっているということだからそのように読む」「文がコンマで続いているのでここはクレッシェンドをかけながら読む」「韻の母音が重なっているので大事な部分として読む」など、文体から解釈できることが多くあるということで楽しかった。また、発話による身体への影響は大きいということを知るためにワークショップを行った。一人目が、自分の愛着のある小物や写真などを見せながら自分の体験を話す。それを聞いた二人目が、一度目は三人称で、二度目は一人称で三人目にエピソードを語る、三人目は、二人目のなかでどのような演技が生まれていたかを全体に発表する、というものだった。私は二番目の役を仰せつかった。これはかなり盛り上がった。私は、意外と自分のなかで大きな変化がなく三人称から一人称への語りに移行できたことに驚いた。思えば、自分の小説でも一人称と三人称の境目が乏しいかもなと気づきがあった。それからさらに、二人目か三人目が、一人目のエピソードに架空のエピソードを追加して一人目に一人称として話す、というワークも行った。

竹中さんが最後に「内面へのアプローチではなく、感情をのっとられているわけではない(けど言葉が出てくる)状態になった」と言っていることが面白かった。戯曲家が正解を持っているわけではなく、戯曲家が戯曲を手放していったとき、複数人の所有物となって、そうするとやってみないとわからないという状態が生まれるということだった。この、戯曲は誰のものかという話は二日目のシャンカルさんのときにも出ていた問いだった。シャンカルさんは複数人のもので、口約束だけで書面で契約などは交わさないと仰っていて、日本演劇界からすると信じられないことだろうとは思うのだが、契約して固着化してしまうものはあるだろうから、複数人でつくるものとして戯曲をドライブしていくことは、作り方の一つではあるのだろうと思った。

休憩をはさみ、リライト作業。一応明日リライトの時間はないので、この時間が最後のリライト作業になる。最後まで悩んで、ある部分について「ルビをふればいいんじゃないか?」と気がついたところで時間が終わった。明日の朝、ホテルで書き直そうと思った。進捗報告をして解散。ここで、アレクサンドランって6音節っていうけど実際は7じゃないか?(ターン、の部分)と気付き、鳥肌が立った。7音が持つ魔力が世界共通だったらどうしよう、でも、日本の短歌などとアレクサンドランはまた別物であるというのも一つの事実である。なんか、とても不思議だった。脳内でインプットが響き合って、おいしいスープが出来上がるところだ。明日の発表が、やるのも聴くのも楽しみになった。

3月3日(日)11:00-20:00

最終日だけ11時から、いきなり講義の始まりである。荘子itさんがいる!やべ〜。最初に提出した志望動機を参加者分見て、自己紹介がてらそれらを荘子itさんと紐解いていく作業になった。私は、このような志望動機を書いていた。

普段は小説を書いています。戯曲や舞台に関する知識はほとんどないに等しいです。しかし、小説と戯曲との違いにはかねてより興味があり、今回このプログラムに志望いたしました。小説を書く上で私が頭を悩ませてきたのは、小説の中の登場人物たちの会話をどのように、よりいきいきとしたものにするか、いや、いきいきというよりは、何か引力を持ったぴんと張り詰められた言葉にできるか、この世界とあちらの世界の狭間に存在する言葉をどのようにして引っ張ってくるかという問題です。戯曲は、ト書きはもちろんあるものの、そのほとんどが台詞で構成されています。台詞と台詞の間に生み出される空気、そして、舞台に放り出され浮遊する、存在感をもった言葉たち。小説ではなく、戯曲の言葉たちが、今私の直面している問題に新たな視点を提供してくれるのではないかと期待しています。もちろん、戯曲の魅力を存分に味わうことのできるプログラムですから、これを機に戯曲を書くということが一体どういうことなのかを知り、実際に書いてみたいと考えています。自身にとって全く新しいチャレンジとなりますが、この4日間を通して戯曲について知り、戯曲を書く身体を獲得すること、小説の身体と戯曲の身体との重なる部分、重ならない部分を知り、双方の創作に活かせる動きを習得すること、を目標にプログラムに臨みたいです。

どうでしたか?と聞かれ、私はそのとき気になっていた「動物にアテレコつけちゃう問題」について話した。ふだんは鳥や石など、人間からは気持ちがわからないものを言葉で書くという無理難題をやっていて、でもそこに確かに交通はあると信じていて、一方で、鳥たちの「気持ち」がわかること、コミュニケーションが行われていると錯覚したい誘惑もあって、結局「会話」ってなんなんだろうとわからなくなりました、といったようなことを喋ったと思う。荘子itさんは言語化というか、パラフレーズがめちゃうまくて、すごかった。戯曲と小説が違うなと思った点について私なりに話してみた。戯曲は、上演可能性、つまり他者の身体に言葉がおろされる可能性が常に存在していて、そこが小説とは違うんだけど、じゃあ小説では何ができるの、どう開いていくのということを考えていきたい、といったようなことを言ったと思う。想像力の行き止まりになっている言葉はつまらない、どのような言葉を媒介にしたら対等な関係を築けるんだろう、荘子に「知魚楽」という話があってそれを思い出した。人間同士も人間以外も分かりあえなさ、隔たりで言えば同じ。たとえば入れ子構造をつくってみるとか、小説内小説、◯◯内◯◯、とかこちらがわに開かれることを考えていくってことなのかな、みたいな感じのお返事だった気がする。とても嬉しかった。さらに別の参加者(たしかEさん)が、「引き剥がすだけではなくどうしても感情移入したくなることはある」よね、という話もしていてアツかった。

正直まとめることが難しいので、メモをそのまま貼っておく。ちゃっかりサインももらってしまった。いつか一緒に仕事したい。

後半は、濱口竜介の『偶然と想像』の第二話を観た。観て良かった。全三話からなる映画らしく、二話以外も観てみようと思えた。小説家に感情移入した。それらの感想を語り合っていたら次のプログラムの10分前になってしまった。そのほかアツかったこと。荘子itさんに、Ra Cosmicomisheでは「小説」と「小節」が混ざり合っていますがあれは何が起こっているんですか?と聞いたら「俺が聞きたいよ!」と爆笑されていたこと。完全に菊地成孔さんらの仕業だったらしい。

14時から17時まで、「AAF戯曲賞関連シンポジウム “戯曲賞”を考える」に参加した。北海道戯曲賞、岸田國士戯曲賞、AAF戯曲賞、OSM戯曲賞の各特色と活動を説明いただいたあとに、クロストークが行われた。戯曲賞、いっちょ応募してみっか!という気持ちになった。ちなみに登壇はされていなかったがせんだい短編戯曲賞の担当者も来場されていて、本当に全国の戯曲賞の中の人が一堂に会していたようだ。作家主義か作品主義かという話があり、選考する側も大変やなと思った。

最後の休憩をはさみ、発表。発表だけでかなり時間がかかり、個別の作品について感想を言う時間がなかったので、ここで軽くそれぞれについて感想を述べておく。戯曲そのものを載せているわけではないので、読んでいない人にはなんのこっちゃと思われるかもしれないが、自身の記録のために書き残しておく。

発表順に並べる。

①遠吠え:Fさん(原作:Gさん)
セリフはあまり変更されていないが、舞台上に小道具が増えていた(「舞台にはいくつもの「ワ」がある」「「ワ」は量産されているモノである。」「Bが「ワ」の中に立っている。Aが走ってやってくる。」)。文体としては改行が増えていた。なわばりの話であることが強化されていた。「失礼なこと言わないでください。発言の立場性ははっきりしているつもりです。」が、変更後は、B「失礼なことは言わないでください 発言の立場は、はっきりしているつもりです」、A「あなたとわたしの立場性ですね 気をつけます」となっていた。Bの発言がSiriっぽいなと思っていたが、本当にそれが意識されていたようで、Aが狼男ならBも人外なのではないかと、リライトの中でBがAIであるという設定になったらしい。ワは輪であり、◯でもあり、入ったり出たりできるものらしい。舞台上で観てみたいと思った。リライト前の作品では場所がはっきりしていたが、リライト後は抽象的な場所(「ワ」で規定される)に変更されており、それがテーマを際立たせている。

②武器:Gさん(原作:Eさん)
意味のわからないものが、意味のわかるわからなさに変更されていた。舞台中央に大きな石が出てきた。戯曲の形式として、「」を使用しているのが印象的だった。韻を多く踏んでいる。たまに、5・7・5が入るなど言葉遊びのようなセリフが増えていた。「カバが川の中に入っていく」はリライト後も残されていたが、実際に上演するときどうするのか楽しくてしかたがない。(叔母)という表記が気になった。この叔母は喋っているのかどうか。最後、「娘、大きな石の隣に小さな石をそっとそえる。」この動きが良かった。慰霊でもあり、祈りでもあり、親切でもあり、抵抗でもあり、様々に解釈できる。面白い回答の仕方だと思った。

③ケア:Eさん(原作:藤井佯)
非常に嬉しいリライトだった。まず冒頭の言葉が良い。「人間の形をしたまま人間であることを諦める時、人は鳥になる。 ヨウムが見ている夢の中で、人を鳥にする施設についてのインタビューが行われる。」まず、A、B、Cがそれぞれ、献花しにきた男性、吹き込まれた女性の声、元施設職員に変更されている。Cを、AとBを遮る者であると解釈したと話されていたのが面白かった。私の書いた戯曲のセリフのB「オプション盛ってぇ」を気にかけてくださったようで、リライト後の戯曲にも「てぇ」という音が登場することが興味深かった。鳥と火。また「ヨウムは足を滑らせるという感覚についてわからないはずだが、ジャンルで言えば悪夢の類だったので恐怖を感じる。」という言い回しがよかった。人間ではない存在、ヨウムとの距離の取り方が絶妙だと思う。「鳥はいいです。鳥はいい生き物です。来週末行きましょう。」←嬉しい。ちょっと小笠原鳥類っぽい。また、読み上げ方も、間違えたら一言一句正確に言い直すやり方で、それが興味深かった。人によって読み上げ方が全然違う。Eさんは、実際にこれを上演できると考えながらつくっていたらしく、「ヨウムの夢」をどのように舞台上で再現するのか楽しみになった。また、「タイトルは変更しない」というルールのせいで、「ケア」の話が一切出てこないのにタイトルが「ケア」になっており、味がやばいことになっとるなと思った。しかし、テーマとしてはケアの話でもあったように思うので、むしろタイトルが定着したようにも感じた。

④転送:藤井佯(原作:Bさん)
自分の書いた戯曲なので、どこをどう変更したのか、なぜそうしたのかを簡単に書いておこうと思う。まず、元の戯曲では異世界というのは単なる記号でしかなく、それが面白さを引き立てていたが、私がリライトするにあたってはそこをもう少し掘り下げてみたいと考えた。そこで、公園の台にトクホのポーズで乗ると異世界に転送されるという設定は引き継ぎながら、「異世界では別の言語が話されている」「Aが異世界の言語をめちゃくちゃ使いこなしている」「この世界のBと同様に、異世界側の転送ポートの側にもCがおり、AはBとCに同時に応答しながら、時には互いの言葉を翻訳しながら、異世界ごしに二人に挟まれて時間が進行していく」という仕掛けを付け足した。また、AとBが別れるのが悲しすぎて、リライト後はAとBが別れないように改変した。会話のテンポの良さは損ねたくなかったので、できるだけ面白くてテンポの良い会話、でも自分からしか出てこなさそうな言葉を心がけてリライトした。また、異世界語は私の心地よい音を当てはめた。戯曲上では、日本語で翻訳された意味をルビとして振っている。演じる人に最も心地よい音の響きで演じてほしいので、戯曲冒頭に「なお、言葉の響きは適宜変更してもよい。」と書き足した。

⑤小編戯曲:Bさん(原作:Dさん)
三つの場所ごとに、チャプターがわかれていて、登場人物が明確になった。「眼眼(ヤンヤン):女子大生、中退、ギャルみ、躁鬱み、からの、レッツメディテーション系、とりま水」など。ちょっと登場人物が良すぎる。お揃いのタトゥーさんの詩を思い出した。「吸ってえ、フー、吐くスー」がこの戯曲のリズムになっていて、それが最後まで戯曲を貫いて支えている。先輩がオノマトペを全部言うのもかなり良い。呼吸ってなんだろうなと思った。ネイバーフッドセンター★3三、のリフレインも気持ちが良い。これも上演を観たくなった。サンプリングっぽさも思った。正直かなり好きで、好きということだけでずっと語れてしまうのでここまで。

⑥Accept all cookies?:Dさん(原作:Fさん)
「「自身のクッキーをモチーフにしたインスタレーション作品<Accept all cookies?>に用いたキャプションを基に執筆した」テキストを基に戯曲にしました。」と冒頭に書いており、さらに、戯曲に添付されていた写真をそのまま撮影した画像が添付されていた。舞台上にはおそらくインスタレーション作品があって、演者は「鑑賞者」としてインスタレーション作品の中に立ったり中に居座ったりする。祖父の話、下歌(しものうた)、上げ歌など、どこから出てきたんだという要素が楽しかった。解釈して、翻案しているようなイメージ。少し理解が容易くなっている。大事なところは損ねないように、わかりやすさを足している感じ。とてもうまく行っていると思った。

⑦私家版 2024/02/09:Aさん(原作:Cさん)
こちらも大きな変更は加えられていない。ドキュメントが少し簡潔になっている。細かい点だが、ト書きとセリフでフォントが変わっているところが気になった。また、(間)がセリフ内に挿入されているのも特徴的だと思った。柳田國男の話が追加され、それが補助線として機能するつくりになっている。AさんとCさんが既知であったことは最初に述べたが、Aさんは途中でCさんが戯曲の舞台とした場所にあたりをつけたようで、リライト前には明記されていなかった「名古屋駅」という固有名詞がリライト後の戯曲には挿入されていて、それも面白かった。人を、というより場所を書いている感じがあって、それはリライト前からそうだったけど、Aさんもその空気感を壊さないようにリライトしているなと感じた。

⑧新しい朝:Cさん(原作:Aさん)
べらぼうに長くなっている。9ページの力作。注意書きがあっていいなと思った。AとBのセリフは長い一人語り、話し言葉、実際にこういう話し方をする人いそうだなという話し方。「DoctorがBから降りる」「TheifはCから降りて、」というト書きが印象的だった。実際、最後のほうに会社の同僚らとしてA〜Dは再登場するのだが、それが舞台の上で生まれ変わったような感じがして、それが葬儀と火葬というイメージと重なって、こういう解釈があるのかと面白かった。戯曲を読むために用意したメッセージブックの一覧が末尾に載っているのも面白い。必ずしも読んだわけではなく、積読の魔力というか、タロットカード的というか、とにかく媒介としてピンときた本を用意して、それを傍らに置きながら書いたらしい。人によって戯曲の書き方もばらばらだったと思うので、各々の書き方を聞いてみたくなった。

以上8作品がリライトされ、最後にナビゲーターの萩原さんから「どれも優れた戯曲になっている」というフィードバックをいただいた。ここでいう優れたというのは「固有性があること」「作家性があること」「複数性があること」それらが増幅されたという意味で言われている。もう21時に差し掛かっていて、同会場のレストランに駆け込んでささやかな打ち上げを行った。非常に実りある四日間となった。

以上が、AAF戯曲賞関連プログラム2024『戯曲/演出 集中キャンプ』の参加記録になる。正直、9割以上中身を書けていない。とにかくその時間の中にあった会話や議論が面白く、実り深いものだったのだが、すべてメモしているわけではないし、メモを書き起こしたとてすべてを書いたことにはならないだろう。咀嚼は続けられる。あくまで、現時点で書けることだけを書いた。3月7日からは演出コースが始まって、そこでは戯曲コースでリライトされた戯曲に演出をつけていくワークを行うらしい。観に行きたかったのだが都合が合わず断念した。観たかった……。

私としては、仲間を得られたことがやはり大きかった。モチベーションがかなり刺激された。戯曲も書いてみるか、と思えたのも開かれだし、小説にしてもどのように言葉を使っていくか、どのようにして開いていくかということを考えるきっかけになったと思う。素晴らしいキャンプだった。