2024.03.10 余さんへ

2024-03-10手紙余さんへ,手紙

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お手紙をいただきました

https://note.com/yo_04/n/n309323b8d314?sub_rt=share_pb

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余さんへ

本当ですね、「いつわる」で「佯」が出てくることを知りませんでした。さすがに自分の名前なので辞書登録しており……。「ぶんぶくちゃがま」ですが、当時TLで友達または恋人とブックオフに行くことの批判?(デートでブックオフだったか)が流れてきて、「なんでや友達とブックオフ一番おもろいやろ!」と思いツイートした記憶があります。なので、「ぶく」が「ブックオフ」になっています。そこだけ固有名詞……。異界觀相vol.2の打ち上げのとき、漫画を寄稿いただいたふぢのさんと井戸畑さん、エッセイを書いていただいた大槻さんに合流しようとしたら「いまブックオフにいます!」と言われ、初対面の状態でブックオフにて落ち合うという状況に陥ったことがあり、それが楽しかったんですよね。ブックオフも最近はどんどん均質化されてきて、私の最寄りのブックオフは全然おもしろくないんですが、まだまだ掘り甲斐のあるブックオフはたくさんある気がしています。あのツイートはけっこうちょけていて、友達と文学をするってなんやねんという感じなのですが、友達と文学ができるとすれば、それはきっととても楽しいことだろうなと思います。

戯曲キャンプからもうすぐ一週間が経つのだということが信じられません。学校がそういう場だったというのは非常に素敵な話ですね。私の体感としては学校生活は嵐だったので、余計素晴らしいことのように思えます。とはいえ私も学校という人間が半強制的に集合している場から離れたときに、どうやって仲間や場を探していけばいいのだろうということはまだよくわかっておらず、いまはSNSがあるので多少楽ではありますが、それももちろん限界はありますしね。ふだんどうしても引きこもってしまうのですが、たまに外に出ると楽しいなというのが戯曲キャンプでの気づきでした。呼吸がしやすい、と書きましたが、それまで息苦しさがあったことにも気がついていなかったので、換気って大事だし、風通しのよい場にあれて運がよかったなあと思います。

けっこうな分量を割いて、↑に書いてしまったのですが、私は今まで戯曲というものを読んだことがなく、漠然と「ト書きがあって、セリフがあって」みたいなイメージだったんですよね。また、観てきた演劇もどちらかといえばコント劇が多くて、会話でドリブンしていく感じの、そういう戯曲の固定化されたイメージがありました。もちろん、一人舞台なども存在は知っていましたし、在学中に平田オリザの授業を受けたこともあるのでなんとなく「戯曲、もとい演劇って思っているより広そうだぞ」ということはわかっていたのですが、具体的にはイメージできない、みたいな状況でした。それで事前課題として集まってきた他の人の戯曲を読んだら、まず「これどうやって演じるんですか?」という部分がさっぱりわからないものがありました。会話が支離滅裂なものもありました。そもそも登場人物に実体がない場合もありました。書式もばらばらで、ここまで統一されていないものなのか、と驚きました。小説というのは、型がないので基本的に何がきてもそういうものとして受け入れられるんですが、私のなかでまだ戯曲というのは一定の型を持ったものだというイメージがあったので余計驚いたという感じです。あとは、演劇をされている方から「戯曲と上演台本の違いってなんだろう」という話が出ていて、私はまず「二つあるの!?」とびっくりしたわけですが、私の理解では、戯曲というのは原典で、上演台本はそこから咀嚼された演劇空間を再現するためのテクストで、その二つを往還しながら舞台が立ち上がっていく、といった印象になりました(これは正解があるものではなく、あくまで私の解釈にすぎません)。時間/瞬間の切り取り方は漫画と小説が近いというのはおそらくその通りで、時間軸(これは作品内部の時間軸とは別物)が単線的なんですよね。よほどのことがない限り、小説は(縦書きならば)上から下、右から左に読んでいきますよね。漫画は少しそれが緩みますが、多くの人が右上から左下へ読むというルールを暗黙の上に了解しながら読んでいるように感じられます。いや、それを言うと映画や舞台も単線的ではある(というか人間は今のところそうとしか生きられない)のですが、それらは受動的、オートマティックに時が流れていくという点で異なるのだと思います。
私も「これがわからないならもういいです」と思いながら小説を書いていますが、漫画を、という欲望はそこまで強くないかなと思います。単純に絵が描けないというのもありますが、世界を見せたいわけではないということかもしれません。漫画にかかる手間を甘受できるほど情熱が強くないという身も蓋もない感慨です。しかし地の文が苦手だという感覚はあまりわからないかもしれません。私には漫画の背景(を地の文に対応させきることは不可能ですが)を書き込むほうが面倒に思えます。地の文というのは単に説明の役割だけを担うものではないですし、小説を地の文とセリフにわけてしまうことで取りこぼされるものもあるように思います。一般的に、セリフには状況説明、話を進ませる、話者の性格や話者間の関係について説明する、などの役割があるとされており、地の文は情景描写などのために存在すると考えられている(?)のかなと想像しますが、私の中ではあまりそこに区別はありません。書きながら「ここで地の文をいれて情景描写しておこう」といったことを考えることもないですしね。そうとしか書けない、おそらく簡単には文体と呼ばれるそれをもとに手を動かしていると自ずとそうした形になるという感触があります。なぜ小説なのかと言われると難しいですが、言葉を扱うのが人より得意だったからなんですかね。幼少期を振り返ってみても明確なきっかけが思い出せないのです。小学校低学年まではわりと絵を描くことが多かったのですが、いつのまにか小説に移行していました。毎週図書館に行っていたので、小説に馴染みがあったというのも大きかったのだと思います。自分にも作れるんじゃないかと思ったのは本を読んでいたからだと思います。それで書いてみたらしっくり馴染んだので続けているという感じです。運が良かったなあと思います。

もともと創ることに興味を持つ子どもではありました。小3のころ、文集の将来の夢に「ゲーマーになりたい」と書きました。私は「-erをつけると◯◯する人、という意味になる」という知識を持っていたので、「ゲームをつくる人はゲーマーだな」と思ってゲームクリエイターの仕事を想像しながらゲーマーと書いてしまったんですね。ゲーマーが、ゲームをプレイする人だったというのは完全に盲点で、私にとってゲームは初めから「プレイする」ものではなく「つくる」ものでした。ゲームは結局いまとなってはむしろ苦手なのですが、そうやってゲームもつくっていたし、絵も描いていたし、漫画も描いていたし、作曲にも少しだけ手を出したしで、なんか色々つくりたがっていたなと思います。その中で小説を選んだというのは、やはり、言葉を使うものだからだと思います。あと一人でやれますし。言葉を私たちは日常的に使用していますが、小説の言葉というのはそれとはまた別のレイヤーに存在するものです。それを言い出すと、詩の言葉、短歌の言葉、もまたそうなのですが、そのなかでも小説はなんでもできるので好きです。ふだんから使用されている言葉というものを使って、そこからもっと遠くまで運んでくれるところが好き、なんですかね。だからその次に好きなのは詩ですね。詩もわりとなんでもできるので。私のなかでは正直あんまり小説と詩の区別がわかっていないのですが、まあええかーという感じです。

運命綺譚、購入されたのですね。どれも良い小説なので楽しんでください。私も残りの邦訳を集めなければ……。

流れがあるから良いのかもしれませんね。海外の川はデカすぎて流れているように見えないらしいです。なので海外から来た方が日本の川を見ると「滝?」と驚くのだとか。私はやっぱり対岸が見えて、流れがある川が好きだなと思います。鳥の群れが怖いというのは新鮮です。それはマンションや団地の明かりを見て、あのすべてに人生が宿っているのか……と途方もない恐れを抱くときと似たような感慨なのでしょうか。

凡蔵稀男ぬいぐるみについて、完全に初めてだったので贅沢して材料を買い集められたというのはあると思います。仰るとおり服の素材がそれぞれ違います。急を要したというのはわかります、私もぬいぐるみを作っている間は他のことが一切できませんでした。

>私にとって世界は「私」と「あなた」のみで表されます
私の場合は、あなたすらないかもしれません。そういえば「あなた」のことって考えたことがなかったですね……。

シンポジウムですが、故郷喪失との関連などを抜きにしても、どれも興味深い講演で面白かったです。故郷喪失にかかわることとして気になったのは、カズオ・イシグロの「The Unconsoled(充されざる者)」という小説において、カズオ・イシグロは舞台である、夢をモデルにした匿名の街に、中欧を思わせる特徴を多く備えさせているがそれはなぜなのか、というテーマでなされた講演でした。発表のなかでカズオ・イシグロの「the language of dreams is a universal language.」という言葉が紹介されており、面白い視点だなと思いました。また作中には次第に「異郷の街が故郷に見えてくる」仕掛けが多く施されています。異郷の街が故郷に見えてくるというテーマは、個人的に故郷喪失アンソロジーのなかでも考えたいテーマだったので、タイムリーで嬉しかったです。
「英語圏文学とポーランド人」という発表も印象的でした。その発表では「語圏」という概念が確認され、「人は語圏にすみつくのだ」という主張がなされました。ポーランドという国は120年間あまり国土を失っていましたから、しかし言語は連綿と受け継がれていき、ポーランド人が書いた、あるいはポーランド語で書かれた小説が多く世に残されているわけです。クッツェーの書いた「El polaco / The Pole」に登場する描写が印象的でした。クッツェーは南アフリカ出身の作家ですが、この「ポーランドの人」という作品には、ポーランド語を母語とするピアニストとスペイン語を母語にする主婦との不倫が描かれます。情事の際に使用される言語は英語です。つまり、リンガ・フランカとしての英語で、人間は情事ならばできるんです。その後、ピアニストは彼女に恋い焦がれたまま死に、主婦は「あなた宛にピアニストが書いたポーランド語の詩があるから引き取ってほしい」と言われ、結局彼の詩を引き取ることになります。彼女はポーランド語が読めませんが、やはり意味が知りたくて、ポーランド語をスペイン語に翻訳してくれる人を探します。ここで、ポーランド語を英語に訳す人を探すほうが当然難易度は低いのですが、彼女は自身の母語でそれを読みたがったわけです。しかも、ピアニストの詩は立派なものではなく、本当に拙い愛の詩です。だけど、愛をしたためるとき、彼は母語であるポーランド語で書かざるをえなかったし、彼女はやはり自分の母語であるスペイン語でそれを読むことを望むわけです。この点で、大文字文学ではない文学におけるポーランド語というものが浮かび上がってきて、私はこの小説は未読でしたが大変美しいなと思いました。戯曲キャンプのなかでも考えていたことですが、なぜ日本語で書くのかという問題にもっと自覚的になる必要があるなと考えていたところだったので、この講演を聞くことができたのはありがたかったです。
その他、石牟礼道子をモダニズムの作家であると論じた基調講演も良かったです。そこでは、モダニズムを「モダナイゼーションと不可分であるがそれに対する批評を有したものである」と定義しており刺激的でした。石牟礼道子は故郷喪失の文脈でも気になっていて、苦海浄土はこれから読むところなのですが楽しみです。

異界觀相をやっていたときに、寄稿者の一人から「モダニズムをやろうとしている」と指摘され、そこでのモダニズムの意味を考え続けています。確かに異界觀相はモダニズムの文芸誌だと言えると思いますが、それがどういう意味でのモダニズムなのかはまだわかっていません。そんな折だったので、モダニズムについて「モダナイゼーションへの抵抗」という定義を聞けたのはとても大きかったです。異界觀相も、ご購入いただきありがとうございます。あれは良い文芸誌だと我ながら思います。楽しんでいただけると嬉しいです。

藤井佯

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https://note.com/yo_04/n/n13e67d0b1f75

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