なぜ四葉のクローバーは拾われなかったか——胎界主第一部「使い魔」

Works,胎界主胎界主

 まずは第一部の第一話から見ていこう。胎界主の第一話は難解なことで知られていて、なかには第一話の解説記事なども存在する。私は初め、胎界主@wikiのエピソード考察を別ウィンドウで開きながら読んだ。
 0001、001は、初読者向けの演出ではなく、実は第二部の核心的な部分の伏線になっている。また、胎界主では、9の羅列と、そこに加えられる1が重要な意味を持っているのだが、「0001」、「001」というナンバリングにもそれが見て取れる。

http://www.taikaisyu.com/00roc/roc-013/26.html
http://www.taikaisyu.com/00roc/roc-091/30.html

 凡蔵稀男は「助けて」と言われると断れない(断ると自我が崩壊する)という縛りを負っている。第一話では、魔王ベリトを召喚してしまった小学生、戸的実から「助けて」と言われ、ベリトの強制送還を手助けすることになる。

 第一話でよく議論が起こるのが、なぜ稀男が四葉のクローバーを拾わなかったのかについてだ。ここではTwitter等でこれまでなされてきた考察を踏まえて、私なりにこの問題について解釈してみたい。
 四葉のクローバーは、バンシーが取り替え子の目印として使用するもので、いわば稀男の本当の母親がもたせたものになる。一方で、一話冒頭にあるように凡蔵夫妻が赤子の稀男に手渡したものでもある。このとき稀男はゲラッゲラッゲラッと不気味に笑っているが、この笑いは本当に嬉しかったからこぼれた笑みであるとも解釈することができる。

http://www.taikaisyu.com/00roc/roc-067/09.html

 その根拠となりうるのが上図である。絵をそのまま受け取るとすれば、四葉のクローバーが墓前に供えられているように見ることができる。「ひとりの幼子がオモチャを贈られ喜びに包まれた それは本物の幸せだった」、「同じオモチャが大人に成った幼子に贈られた しかしそれは粗末なガラクタにしか見えず 何の喜びもなかった」について、オモチャが四葉のクローバーであると捉えると、クローバーは凡蔵夫妻から二度贈られていると受け取ることができる。一度目は、赤子の際、凡蔵夫妻が稀男が取り替え子であるという真実を知る場面で、このとき稀男は凡蔵夫妻からの贈り物を「自分の存在の拠り所」として受け取ったのではないか。しかし実際には、凡蔵夫妻は取り替え子を不気味に感じている。七歳までは本当の子の名前を与え稀男を育てているが、最終的には稀男の元から去っていってしまう。四葉のクローバーが稀男に二度目に与えられるのは、凡蔵稀男が七歳で亡くなり土葬された場面である。

http://www.taikaisyu.com/00roc/roc-089/08.html

 ここで四葉のクローバーの意味は反転する。四葉のクローバーは「自分が誰からも必要とされていないことの証明」になってしまうのである。しかし稀男は四葉のクローバーを持ち続けていた。粗末なガラクタにしか見えなくても、やはり義両親から贈られた、自分の存在の拠り所として唯一のモノであったので手放せなかったのである。

 また、四葉のクローバーがしばしばお金とともに描写される点にも注意したい。稀男は「お前ら人間は銭とられるとホントイヤそうな顔すっからな そのへん判り易くて俺を安心させるのよ…」と栗島たまきに語っている。ここでお金は「なくなるといやなもの」つまり、「大切なモノ」と世間一般的に認識されているものである。個人にとって大切なモノというよりは、世間的に価値が一定以上認められているといった点で大切とされるモノである。そのお金と四葉のクローバーが一緒に描かれているということは、四葉のクローバーがこの時点で稀男個人にとって特別に大切なモノというわけではなく、稀男がクローバーを無自覚に持ち続けていたということを暗示している。

 稀男は第一話「使い魔」の時点で初めて、運ぶ力を無意識にコントロールするように変化したのではないだろうか。つまり、それまではマナのコントロールなどしておらず、常に漫然と運が良い状態だったのが、ベリトの強制送還を経て無意識に「人を助けるため」に運ぶ力が使用されるようになり、相対的に「どうでもいい」ことである、お金とクローバーを落としてしまうのである。この時点で、クローバーは稀男個人にとって無意識下では大切なモノではなくなっている。

http://www.taikaisyu.com/01/33.html

 それを踏まえて、四葉のクローバーを探すシーンを見る。まず、稀男は栗島たまきたちに「なんだ まだいたのか」と声をかけている。この「なんだ まだいたのか」には、人助けをして事件が解決したらそこで関係は終わりであると先に宣言する意味合いがあるのだろう。自身が誰にも必要とされていないと感じている稀男は、ある種の自己防衛のため、関係の終了を相手に宣言される前に自分から関係を断とうとする。しかし、たまきが「私も探したげる」と稀男に声をかけるのはその後である。ここで、両者の関係は終了などしていないことが仄めかされる。そして「大切なモノ落としたんでしょ?」とたまきに言われたことで初めて、稀男は四葉のクローバーが大切なモノではなかった、と気がつくのである。四葉のクローバーは「自分の存在の拠り所」であると同時に「自分が誰からも必要とされていないことの証明」でもあった。しかし今や四葉のクローバーは大切なモノではなくなっており、「自分の存在の拠り所」として見ることはできなくなっている。ここで、四葉のクローバーを拾ってしまうと、自分が誰からも必要とされていない状態に逆戻りしてしまう。稀男は、二人への人助けが上手くいったことで多少なりとも手応えを感じていたのではないだろうか。助けてと言われると断れない人間が、実際に人助けを成功させ、四葉のクローバーという「自分の存在の拠り所」無しでも生存できる可能性を開いたのである。
 つまり稀男がここで四葉のクローバーを拾わないのは、自分が誰かから必要とされる可能性に初めて気がつくからである。四葉のクローバーを拾わないことによって、人助けによって自我を確立することを選択したとも言い換えられるだろう。

 ちなみに、第一話33ページのページ名は「セリフで説明は最後の手段」となっている。むしろ説明が少なすぎるほどだと思うのだが、尾籠視点ではこれでも説明しすぎということなのかもしれない。読者を信頼してくれているのだろうが、おっかない話である。この四葉のクローバーについては様々な考察があるため、私の考えが正しいとは言い切れないが、私は一話のラストには淡い希望が描かれているという印象を抱いている。四葉のクローバーを拾わないことによって、過去を向いていた人間が次第に現在を見つめるように変化していくさまを読み取ってしまうのである。
 なお、四葉のクローバーは今後も登場するが、その考察についてはまたその都度行うこととする。