【試し読み】カーレン様
本記事は、全頁総天然色web漫画『胎界主』の非公式な二次創作作品、
藤井佯『井戸のあかつき 凡蔵稀男短編怪奇小説集』の一部サンプルです。
カーレン様
時刻が十五時を回るころ、男は店員を呼んだ。
「いつもの」
華美なウェイトレス服の若い女が奥へと消えた。男は読書を再開する。ピチリとした長袖のシャツに、三分袖のジャケット、細身のズボン。どれもこれも真っ黒だった。服装とは対照的に、そこから伸びる手足は生白く、髪は青白い。男は、透き通るような白髪をだらりと傾け、痩身をくの字に曲げながら窮屈そうに小さな文字を追っていた。窓から少し離れたボックス席は薄暗く、弱々しい日の光がさらさらと、時折テーブルの上で揺らめくばかりだった。ふと男が顔を上げる。その眼は何も映さない。彼の髪と同じかそれ以上に透き通った純白の瞳。左右対称な面相を持つ者は稀だが、その男の持つ不均衡は一等奇妙だった。左の睫毛だけがやけに長く伸びている。男がまばたきをすると、片目が静かに伏せられた。白い眼には霧が立ち込め、見る者を煙に巻く。男がいま何を感じているのか、何を考え生きているのか。波立つことのないその湖面からは何も読み取ることはできなかった。蒼白の顔を持つ、全身黒尽くめの男。喪を体現したかのような装いで、男はいつも決まった時刻にこの店へとやってくる。ファミリーレストランモカ。鮒界市内の一レストランに過ぎないが、この男の住む辺りでは町一番の味と評判だった。
凡蔵稀男は人間ではない。正確には、バンシーと人間のハーフである。女の性しか持たないバンシーは、この世界、ソロモンへイムから人間の男を連れ去って子をもうける。そうして生まれたバンシー人、その中からごく偶に「出来損ない」が誕生する。
ニス、と呼ばれるこの出来損ないは、虚弱で、大抵は七歳までしか生きられない。そこでバンシーたちはニスが生まれると、再びソロモンへイムへ赴き、健康な純人間の赤子とニスを取り替えてしまうのである。こうして取り替えられたニスの凡蔵稀男も、例に漏れず身体が弱く、七年で死んだはずだった。
なぜ、彼がこうして今も生きているのかは、彼自身にも分からない。遠い異世界にいるはずの、実の両親について知る手がかりも、ない。
幼少期、彼を育てたのは、かつてこの町で鮒界市立公園墓地を運営していた凡蔵夫妻である。しかし彼らも七つで稀男が亡くなると、墓地を捨て、ぱたりと行方をくらましてしまった。稀男が墓から生き返ったところを保護したのは、たまたま通りすがった禅寺の老人だった。稀男は老人の元で成人を迎え、それ以来、養親の業務を引き継ぐ形で墓地の管理人という立場に収まっている。町の人々は、稀男のことを様々な名で呼ぶ。墓守、サメ男、そして「亡くし屋」。
コト、と店員がカプチーノとチョコケーキをテーブルへ置くと同時に、入口のドアが勢いよく開け放たれた。
「いたいた、あいつだよ先生!」
そう言うのは西鮎世小学校五年生、戸的実少年である。稀男の姿を見つけるや否や、トマトのヘタのような癖毛がピンと跳ねた。続けて、戸的の同級生である栗島理子、そして二人につきそうようにして女が入店してきた。理子は踊っていた。華麗な足さばきでステップを踏んでいるが、その表情は沈んでいる。女はそんな理子を心配するように遠慮がちに様子を伺っていた。
稀男は露骨に嫌そうな表情を浮かべ、チョコケーキにフォークを真っ直ぐと突き立てた。小学生たちは、当然のように稀男の向かい側に座ろうとする。
「あっ」
そのとき、女が派手に転んだ。稀男の方へ倒れかかり、そのままチョコケーキに突っ込んでいった。べしゃりと潰れたケーキを見て、たちまち女の顔は真っ青になった。
「あっ、あっ、すみません……!」
「……」
稀男は黙って店員を呼んだ。「もう一つ」と頼み、無残な姿となったチョコケーキは下げられていった。
「理緒セン大丈夫?」
戸的が覗き込むなか、理緒センと呼ばれた女はハンカチで胸元についたチョコクリームを拭っている。やがて諦めたようで、チョコまみれのブラウスのまま稀男の方を向き直った。
「あの、お怪我は……」
「ねーよ」
稀男はフォークの先で戸的たちをしっしと追い払う動作をした。
「なんだこのドジ女は」
「ね、言ったでしょ? ちょっと扱いが難しいんだ」
戸的が理緒センに耳打ちする。はあ、と怪訝な顔で女は相槌を打った。「聞こえてんだよ」と稀男が言うのにも構わず、戸的は向かい側に腰掛けた。理子、女もあとに続く。理子はまだ踊っていた。
「何の用だ」
稀男は毎日決まった時間に決まったものを食べる。「おやつの時間」を邪魔され、すっかり不機嫌だった。
「ええと『亡くし屋』さん、『サメ男』さんでしたっけ」
「サメ男でいいよ」
戸的が口を挟む。
「ええ、サメ男さんね。わたくし、戸的君と栗島さんの担任をしております、湯浅と申します」
湯浅は、肩までかかる髪を緩く二つ結びにしていた。チョコの甘い香りがテーブル一帯に漂っている。上体を少しかがめておずおずと名乗る様子には、大事を嫌う教員特有の神経質さが垣間見えた。まだ稀男を警戒していることがわかる。
「なんでも『いのちの緒』がお見えになって、それで相手を亡くすことができるとか」
半分バンシーの血を引く稀男には、生き物たちの頭部に角が見えた。角は左右二箇所から突き出ており、右からは赤い『いのちの緒』が、左からは緑の『こころの緒』が生えている。二つの緒は互いに捻れ絡み合い、人間の頭部に輪を形作っている。天使の輪のように見えないこともないが、一般的に想像されるそれらより、実際はもっとグロテスクな見た目だった。稀男が「亡くし屋」と呼ばれる所以はそこにある。稀男には、『いのちの緒』を指で切断することで、生き物を死なせる能力があるのだ。緒はソロモンへイムへの滞在許可証のようなもので、失効してしまうとこの世界にはいられなくなる。
新しいチョコケーキと、おしぼりが運ばれてきた。稀男はおしぼりを湯浅に投げつけた。それからケーキを一口食べて、「余計なことを喋るな」と戸的を睨みつける。
「それで? 殺しの依頼は受けてねえよ」
「そういうのじゃないって、リッコちゃんを助けてほしいんだよ!」
「お願い」
稀男は顔を上げた。それまでじっと俯いて座っていたリッコちゃん――栗島理子が、稀男の方を見つめた。もじもじと、ただでさえ小柄な身体をいっそう縮こめている。そのとき、ガタガタガタガタと、カフェテーブルが揺れ始めた。いや、実際はずっと揺れていたのだ。それが一層激しくなった。理子が「あ」と短く発した。理子の脚は止まらない。ついにカプチーノの大半がカップから溢れた。
「……」
稀男は自分がしかめ面をしていることが分かった。同時に戸的たちがここへやってきた理由を察した。結局、「助けて」と言われると断れないのである。
稀男がこうして、不可解な現象の解決を余儀なくされているのには理由がある。
この世界は悪魔たちによって影から支配されている。彼らは「ベール」、「ベリアル」、「ルキフグ」の三つの派閥に分かれ、代行組織「ヘッド」を通じてその思惑を人間世界へと浸透させていた。悪魔は、人間であれば誰しもがもつ「たましい」を持たない。そこで、人間の「たましい」を欲し、人間と誓約することで力を得ているのだ。
戸的はかつて、トンネルをねぐらとする妖魔から、魔物を召喚する方法を教わり実行してしまった。実際に召喚されたのは、ベリトという名のベール派に属する魔王だった。ベリトは、戸的の願いを一つだけ叶えることと引き換えに、胎界主を探し出し、「悪魔への十二年間絶対服従」という約束をとりつけてくることを彼に課したのだった。「たましい」の力を用いて創造行為を行う人間のことを、悪魔たちは「胎界主」と呼ぶ。戸的が見つけた胎界主、栗島たまきは栗島理子の姉だった。声の出せないたまきは、「通訳になる」という夢を叶えるため、喉を治すことと引き換えにベリトと誓約してしまう。
そこでようやく、戸的は事の重大さに気がついた。途方に暮れた戸的は妖魔に泣きついたが、妖魔は「ある人の元へ行け、ワシは手を引く」としか言わない。その人物というのが、一介の墓守に過ぎないはずの、凡蔵稀男だったのだ。
果たして稀男の機転によって、魔王ベリトは魔界に強制送還された。しかしその事件をきっかけに、稀男の存在が悪魔間に知れ渡ることとなる。すなわち、悪魔たちが探し求めてやまない「真の胎界主」が、凡蔵稀男なのではないかと目する者が現れ始めたのだ。以来、稀男は悪魔たちにまつわる大小様々の奇妙なトラブルに巻き込まれることとなった。
胸元をごしごしとおしぼりでこすりながら、湯浅が口を開いた。
「下校時間になって、靴を履いたら突然脚が言うことを聞かなくなったそうなのです。わたくしなどでは到底解決策が思いつかず……。それで、戸的くんから貴方のことを伺ったのです。こういうことならサメ男さんに頼むのが一番だからって」
「このガキャ面倒ごとばかり持ちこみやがって」
稀男は戸的の頭を押さえつけて両拳でぐりぐりとこめかみを圧迫した。ピギャーとじたばたする戸的を見て、湯浅は微笑んだ。
「あら、仲がよろしいんですね」
湯浅が言い終わらないうちに稀男は戸的からパッと手を離している。そしてかさの減ったカプチーノをずずと啜った。「それで」気を取り直して稀男は理子に尋ねた。先ほどから、稀男の脚に理子の爪先がコツコツとあたっている。
「靴が脱げないんだ」
理子が言った。
「カーレン様に取り憑かれたんだ」
「カーレン様ぁ? 誰だその外国人」
「しらねーよ!」
理子は自分から思った以上に大きな声が出たことに驚愕したのか、びくりと辺りを見回した。店内には他に客はおらず、マスターはレジで居眠りをしている。戸的が補足した。
「ボクがベリトを召喚したときに『魔物召喚の手引き』を買った妖魔だよ。あいつが売ってた『カーレン様召喚の手引き』がクラスで流行ってたんだ。なんでも願いが叶うおまじないってさ。それでクラスの女の子たちからリッコちゃんも誘われて」
「あのクソ妖魔」
稀男はげんなりした。
「おめーもなぁ、そんな馬鹿げたものに手ェ出さんよーに!」
湯浅があわあわと理子を守るように腕で遮る。戸的から聞いていた以上に「扱いづらい」稀男の様子を見て、児童ら二人を擁護する側に回ろうと決めたようだ。
「あれだよね、何か叶えたい願いごとがあったから、その、カーレン様を呼び出したのよね?」
理子の表情に羞恥の色が滲んだ。普段は快活な少女のはずである。男勝り、とも言える性格で、曲がったことが大嫌いだった。半年前、新学期を迎えた五ノ参では、「栗島さんのボウ力について」の学級会が開かれた。彼女が暴力を振るったのは、戸的実がクラスメイトの魚成勇を「貧乏人」、「欠食児童」などと言いながら殴ったからだ。負けた生徒が魚成を殴りに行くというルールで行われたジャンケンで、戸的は連続で負け、魚成に何度かげんこつを振るった。そこへ騒ぎに気づいた理子が、ジャンケンの首謀者である羊谷つよしと、誘いに乗った児童もろともボコボコに殴り返したというのが事の経緯である。しかし、理子はその件で学級裁判にかけられ、ほどなくしていじめが始まった。
見かねた戸的と魚成から助けを求められ、このとき稀男はわざわざ小学校に赴いて事件を解決している。結局この事件は、悪魔に使役された元担任と、悪魔を父とするインプ・羊谷が結託して起こした意図的な学級崩壊だった。稀男の介入により、羊谷は魔界へ送還され、元担任は逮捕され、事件は落着した。こうして五ノ参には再び平和が戻ったはずだった。
「何願ったのさ?」
と無邪気に聞くのは戸的だ。理子はしばらくうつむき加減に黙っていたが、突然何かが爆発したかのようにばっと両腕を広げた。湯浅がのけぞる。
「あーもう! 『好きな人と会話がしたい』って願ったの! いいでしょ別に! ふつうのコトじゃん」
「あらぁ、いいじゃない。え、だれだれ? 同じクラスの男子? 話しかけてみなよ、大丈夫だって」
ムキーと手足をジタバタする理子の隣で、湯浅は何かのスイッチが入ったようで目をきらめかせた。理子は、うぐっと変な声を出し頬をますます紅潮させるのみ。稀男はなんとなく察した。
「ジャリの恋愛に首突っ込むなよバカ教員」
とりあえず、伝票ホルダーでポカリと湯浅の頭を叩いておく。
「ったく、バカ女教員キャラは間に合ってんだよこっちは……」
ぶつくさ言いながら、稀男はチョコケーキの最後の一欠片を口にした。
「おめーらもなんか頼め。そこの先公のおごりだ。それと、取り憑かれたのはお前だけなんだな?」
理子はコクリとうなずいた。
そのときだった。
稀男に緊張が走る。稀男に見えたのは、理子と戸的のいのちの緒が不自然に縮む光景。緒の状態は、肉体の安定度に比例する。命の危機が迫っていると、その者の緒は縮むのだ。
「伏せろ!」
稀男は叫んだ。そして「マナ5%使用……」と早口で呟く。直後、ドゴォ! と鈍い轟音。窓ガラスの飛び散る光。脳が揺さぶられるような重い衝撃。
(続)
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