2024.02.14 上雲楽さんへ

2024-02-14手紙上雲楽さんへ,手紙

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お手紙をいただきました

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上雲楽さんへ

早速のお返事ありがとうございました。決定的な思い違いとありますが、私にとってもそうでした。自分の前提とするものと、第三者の前提とするものがズレていたということで、それに全く考えが及んでおりませんでした。これは嬉しい収穫です。これまで、「●●という事情なんですがこれは故郷喪失にあたりますか?」とか「故郷喪失者じゃないと、どうしても応募できないんですか?」とかDMでご質問をいただいて、実を言うとなぜそのような質問が発生するのか意味がわかりませんでした。アンソロジーを編む者の責任として、「そもそも故郷喪失とは何か」「故郷喪失者とはどういった状態を指すのか」といったことは、本のなかで論考として深めていこうと思い関連書籍を読み耽っていたにもかかわらず、応募要項において「みな、『故郷を喪失していると自認していること』という一文でピンとくるだろう(こない場合は自分が対象外だとわかるだろう)」という前提の部分は全く疑うことがなかった。そうですね、アイデンティティの話をしていました。故郷喪失者であるということはアイデンティティの一部ですね。そもそも私は「故郷」というものを非常に政治的なものだと考えているので、「故郷」について問われたら、人はアイデンティティのどの部分に故郷を据えるのか選択することができるであろうという思い込みがありました。そしてそれは、その人にとっての真実であり、他者がどうこう判断できるものではない、と。つまり、「故郷を喪失している」以外に「故郷を持たない」「故郷を喪失していない」「故郷を出たことがない」「故郷と思ったことがない」など「故郷」に対しては様々な態度があるはずで、同じくらい「生まれた場所を故郷とする」のか「育った場所を故郷とする」のか「どこにも故郷という感覚を得られない」のか「故郷というと深い山や綺麗な川という漠然としたイメージだ」とか、そういう「故郷」という言葉そのものに対する態度も様々あるはずです。しかし、それらの「故郷」と「喪失」(またはその他すべての故郷にかかる感慨)は、どれもその人にとっての真実です。ですので、故郷を喪失していることは、故郷を喪失している人にとってあまりに自明なことであり、それ以上説明しようがないことだと思っていました。

先日、特定の都道府県を舞台としたSF作品の公募を見かけました。その公募の応募資格は、その都道府県に居住している、またはしたことがある、ことでした。それを見て、「もし(私の出身県が舞台になり)私の番が来たとして、私は屈託なくその地方についての小説を書けるだろうか」と考えたことが、そもそもこの「故郷喪失」というテーマを思いついたきっかけでした。今後どの地方が取り上げられたとしても、そこからこぼれ落ちる人は出てきます。なるほど、書ける地域があるということは、一種特権的なことであることに違いないでしょう。どこかの地域を選ぶということは、どこかを選ばないということと同義です。しかし、その企画の趣旨はそこではなく、これまで創作の舞台とされてこなかった場所に、そこに紐付く語りに光を当てることなのだと私は認識しています。同様に、故郷喪失者というカテゴリをつくることによって、そこに含まれない人々が登場することは自然な成り行きです。それでもなお、まずは「故郷喪失者」たちの声を聞くことを私は選択しました。この本がどこまで遠くへ届くかはわかりませんが、この本をきっかけにしてまた次は別の人々にスポットライトが当たり、そしてまたそこからも疎外されていた人々に……というふうに影響を与えていける、そんな本を理想として全力で故郷喪失アンソロジーを編む心算です。

私は「なぜ故郷喪失者でないといけないのか」と問われた際、応募要項に上記のように書きました。「最も直接的な理由は、私自身が広義の『故郷喪失者』であり、この本をつくることによって、私以外の『故郷喪失者』と出会いたかったからです。」とも書きました。自分の書いた文章を、そのときどきで完全に理解するということは難しいですが、2週間前の私がなぜこのように書いたのかについて、上雲さんからのお返事が、その理解を促進してくれたように感じます。

また、「逃避」というのもその通りだなと思いました。自己憐憫のように感じるということはよくわかります。故郷喪失というと、喪失という言葉に負の引力が働きすぎているからなのかもしれませんが、どことなく居心地の悪さを感じるかもしれません。「故郷喪失者」という言葉では、どうしても「被害者」であるという側面が強調されてしまうようですし、自身が被害者だとは思わないのにそのように振る舞ってしまったり扱われたりしそうなときの決まりの悪さがありますね。

ちなみに、MBTIといっても、本当のMBTIではなくネットに落ちている類型に落とし込む性格診断しかやったことはないのですが、私の場合はINFPしか出たことがありません。確かに一連のやりとりは、感情型と論理型のやりとりに重ねて解釈することもできますね、面白いです。

小説に行き詰まりを感じているという点について、それ自体はとても良いことだと私は思います。ここから先、適切な言葉を選べる自信がなく、どんどん偉そうな口ぶりになってしまいそうで危ういのですが、そもそも、自分の文章に行き詰まりを感じられない人は小説を書けないと思います。「本当のことを何も書けない」ということ、私も悩んでいるのでよくわかります。別にノンフィクションを書いたら満足するかと言われるとそういうことでもないです、私の場合は。巷にあふれている大半のものはつまらなくて仕方がないです。そんなもので満足できるんならコスパ良いですね、とさえ意地悪に思ってしまうこともあります。しかし私の探し方が悪く、読書量も少ないので、本当はたくさんあるのに私が全然「本当のことを書いた作品」を探り当てられていないだけなのだ、と思うことでなんとか正気を保っています。自分の目が厳しすぎる自覚はあります。そして、その目が行き過ぎると自己検閲が始まって途端に書けなくなるということも。だけど妥協できない、苦しい、なんとか書けた、なんで書けたのかわからない、酷い出来だが最悪ではない、みたいなことの繰り返しです。私は多作ではないし、本格的に公募なりに出し始めたのは一年前なので、かなり大口を叩いている自覚はありますが、そんな感じです。ネットの「ワナビ」の馴れ合いは不愉快というのは私も思っているところで、あれはなんでなんでしょうね。何が私の気に障っているのかまだ上手く判別できていないのですが、なんなんだろう。別に小説を友だちづくりに利用しても何も悪いことないはずなんですけどね。というわけで私もとりあえず公募をモチベーションにしています。プロにはなりたいですね、やはり。何も言われなくても勝手に書きますが、書いて良いと言ってくれる誰かがいるというのは素朴に良いことだなと思うので。

他者がいないということは私も悩んでいます。どう書いても偽物っぽくなるんですよね。私は人間に興味がないので、観察できてないというか、素直にストックが足りないんだろうなと思います。ここでいうストックというのは、本当の人間と、小説のなかの人間と両方について。それを悩んでいて、先日AAF戯曲賞の集中キャンプ(戯曲コース)に応募したところ、来て良いとのことだったので、2月末に行ってこようと思います。戯曲というか、演劇を通じて、人がいて、会話をしたり動いたりするということはどういうことなのかな、ということを知れたらいいなと期待しています。もちろん、小説のリアリティと戯曲のリアリティは違いますが、何かのヒントになればなあと。

ソシャゲへ感じる喪失感、良いですね。ソシャゲってサ終しますからね。第三者がやっているのを見て喪失感を覚えるというのも面白いです。私はラノベはほとんど読んでおらず全く詳しくないのですが、追放ものについて、「パーティーを陰で支えている実力者がある日突然役立たずの烙印を押されて追放されるも、実力があるので無問題、今さら縋ってきても知らないもんね」という物語の類型ということで合っていますかね? 故郷喪失であるという見方はできますが、本人が故郷喪失者であると言ってもよいものか難しいラインだなと思います。というのも、そもそもその主人公が元パーティーに帰属意識を感じていたかが謎ですし(物語によるのか)、実力があるので追放されてもそこに喪失感は伴うかどうかまではわからないし……むしろ「どこででも」やっていけることを主人公は誇っているともいえるわけで。起こっていることとしては、一種の故郷喪失なのですが、本人の体感としてはどうなのかまではわかりませんね。先日、河野真太郎『この自由な世界と私たちの帰る場所』を読んだのですが、そこにディヴィッド・グットハートの『どこかへの道』という本の論旨が引用されています(邦訳はされていないようです)。イギリスの著書なんですが、2016年のブレクジットを受けて書かれたもので、著者は、ブレクジットが背景とするのは「どこでも族(Anywheres)」と「どこか族(Somewheres)」の対立である、とするわけですね。「どこでも族」とはつまり、どこに行こうが生きていける、「グローバリゼーションに適応し、どこでも働いて生きていけるスキルを身に着けたリベラルな中産階級」を指します。それに対して「どこか族」とは、基本的には自分の生まれた場所でしか生きられない、したがってその場所の、「良く言えばコミュニティを大切にし、悪く言えば排外的になってしまうような人びと」のことです。河野はこの「危険なほどに分かりやすい対立図式は、溝を深めるためではなく、対立を解きほぐして解除するための図式でなければならない」と述べ、私もそれに同意しますが、非常に興味深い話だと思います。つまり、追放ものの主人公は「どこでも族」Lv.99のような存在だなと感じました。読んだことないので、ここからは憶測ですが、仮に元パーティーの人々を「どこか族」とすると、「どこでも族」である主人公が追放され、しかし追放先でチート級の活躍をする、という話は、故郷で居場所を得られなかったが、学歴メリトクラシーのはしごを昇り、空間的にも精神的にも自らを故郷から切り離すほかなかった新自由主義社会に生きる私たち、に重ねて見ることもできます。すみません、私たち、としましたが、そういう人はいっぱいいるだろうなと思っただけで、「私」と読んでいただいても構いません。私はまさに、そういう半生を辿ってきました(しかし、どこでも族になりきれていないということが肝なのかもしれません。私は結局、就活に乗れなかったですし、一流企業に勤めるようなエリートではありません)。追放もののライトノベルの流行が人々の願望の反映だとすると、少しさみしい気持ちになりますね。さきほどは「本人が故郷喪失者であると言ってもよいものか難しい」と言いましたが、やはりこの場合も「故郷喪失者である」と言い切って良いかもしれません。

話は変わりますが、先日、ベタを飼いました。ベタというのは、闘魚とも呼ばれる美しい熱帯魚で、尾ひれと背びれがひらひらと発達するオスが主に熱帯魚屋などで取引されています。大学時代も飼っていて、そいつはベタにしては長生きで私の大学卒業の年まで生きていたんですが、就職したり引っ越したりでそのベタのことを忘れて数年、やはりしばらくすると恋しくなってまた飼い始めてしまいました。どこに水槽を置くか迷って、机の隅に置いているのですが、これがとても良いです。何って、自分の空間に、自分の意図とは関係なく動き回るものが存在する、ということが抜群に良いです。魚だから人間のことは基本何もわからないと思うのですが、水槽のなかをふよふよ漂ったり、ひれを全開にして水中に静止したりと、そういう動きが、すべて魚自身から溢れ出ているということがとても素晴らしい。もちろん見た目も美しく、見ていて飽きないですしね。以前、ベタを看取ったときは、キッチンペーパーの上に亡骸を広げると、ベタを構成していた色素がキッチンペーパーに吸い取られて滲み、抜かれていくようで、その様がとても美しかったのですが、あれは幻覚だったんですかね。今飼っているベタも、いずれは色を滲ませ溶けて消えていくのだなと思うと余計愛おしいです。この手紙も、時折モニターから視線を外して、ベタの姿を眺めながら書かれました。またお手紙をいただいたその日のうちに返事を書いてしまった。週の後半はバイトなどがあるのでもしかしたらお返事が遅くなるかもしれません。ではまた。

藤井より

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