2024.01.29 巨大健造さんへ

2024-01-30手紙巨大健造さんへ,手紙

𓄿𓅀𓅁𓅂𓅃𓅄𓅅𓅆𓅇𓅈𓅉𓅊𓅋𓅌𓅍𓅎𓅏𓅐𓅑𓅒𓅓𓅔𓅕𓅖𓅗𓅘𓅙𓅚𓅛𓅜𓅝𓅞𓅟𓅠𓅡𓅢𓅣𓅤𓅥𓅦𓅧𓅨𓅩𓅪𓅫𓅬𓅭𓅮𓅯𓅰

お手紙をいただきました

𓄿𓅀𓅁𓅂𓅃𓅄𓅅𓅆𓅇𓅈𓅉𓅊𓅋𓅌𓅍𓅎𓅏𓅐𓅑𓅒𓅓𓅔𓅕𓅖𓅗𓅘𓅙𓅚𓅛𓅜𓅝𓅞𓅟𓅠𓅡𓅢𓅣𓅤𓅥𓅦𓅧𓅨𓅩𓅪𓅫𓅬𓅭𓅮𓅯𓅰

巨大健造さんへ

 こちらこそ旧年中は大変お世話になりました。お手紙ありがとうございます。一度じゃ読みきれず、三度くらいにわけながらこっそり読みました。そのくらい嬉しかったのです。
 『鳩のおとむらい』について。正直、まだ形になったことを信じられない気持ちも持っています。実を言うと、作品の3分の2が募集締切日に殺到したのですが、次の日にはすべての作品の組版を終えていました。過集中だと言ってしまえばそれまでなのですが、何か取り憑かれていたようにも思います。なんだろ、鳩?
 巨大健造さんの作品を見つけたときは本当に嬉しかったのを覚えています。はじめ「of」から始まるタイトルを見て、一瞬タイプミスかと思ったのですが、そうではなくofの前にやってくるのは空だ、これはエピローグだ、と気づいたときに、どこに据えるかが決まりました。『餓鳩よかろく飛べ』『of anti-gravity doves』『鳩の図書館』、この並びは自分でも相当気に入っていて、この並び以外にないだろう、と考えています。
 ルル崎らのこと、「出自はわたしの現実にはあるけども、やっぱりその延長線上の遠いところから来たのだ」という文に、より彼人らのことが私に馴染んだ気がします。髑ポ川闇子も、壊縷紗金剛も、撫滑ミャ鬼も、近くてどこか遠い存在であるように思えます。『鳩のおとむらい』の後に書いた掌編で、闇子と壊縷紗金剛については名前を流用してしまいました。そうした引力があるなと感じています。いま、わかりやすい例がとっさに出てこないのですが、狂言の太郎冠者や次郎冠者を思い浮かべています。文化デジタルライブラリーには「『冠者』とは使用人の事、太郎とは、一番目、すなわち筆頭の召使いという意味です。 気が良くてお調子者、主人思いの人物として描かれることが多く、愛すべき人柄です。 主人に付き従い、様々な曲に登場します。」とあり、それぞれの狂言に出てくる太郎冠者はそれぞれ別の人物なのだけど、根底につながる部分があるといいますか。ルル崎らに、太郎冠者のように性格の一致が見られるとまでは思いませんが、どこか根があり、つながっているのだと思います。これは、タロットカードの考え方にも通じるかもしれません。
 故郷喪失アンソロジーについて。興味をお持ちいただき嬉しいです。望郷の念のようなものが拭い去りがたくある、私にもとてもわかります。故郷喪失という言葉にも幾層ものレイヤーがあって、そのどれもがこれから書かれることを切望しているに違いないと思っています。私の場合は、目の前に迫った故郷喪失の重みを無視できないため、それを優先せざるを得ないでしょう。語ることがあるという状態は、それ以外を語ることを難しくするかと思います。これを書かなければ次のものが書けない、というのは信仰ではありますが、私の場合はそうして進んでいるのが現状です。企画者がそのような状態のため、一意にとらわれない「故郷喪失」の表現が集まると、非常に嬉しく思います。
 実感というものについては、私にも迷いがまだあります。先日とある方からお問い合わせをいただき「作者本人がそれをもっていなくても、それが描かれた作品であるならば、読み手にそれらの感覚を想起せしめ、思いを寄らせることはできるのではないでしょうか」と問われたことについてまだ考えています。私自身の考えとしては、質問者の意見に賛同できるところがあります。一方で、私は「作者は本当のことしか書けない」とも思っています。これらは似て非なるもののようにも思えるのですが、自分の中でどう折り合いをつけていけるものか、まだうまくいっていません。私自身の実感としては、自分の体験したこと、思ったことなどが反映されたもの(これは実際にあったことをそのまま書くというわけにもいきません)が書けたときに、より満足感があります。しかしこれは嘘の混ぜ方というまた別の話かもしれませんね。質問者の方は、応募要項の「実感をこめて」の部分に引っかかりをいだき「故郷喪失していないと故郷喪失は書けないのか(そんなわけはない)」と考えていらっしゃるのだと思います。そして、私も別に「故郷喪失していないと故郷喪失は書けない」とは思っていません。しかし今回は、「故郷喪失している」と思っている人の作品が見てみたかったのです。それがなぜなのか、「見てみたかった」以上に思考が進まずもどかしい思いをしています。
 鳩をテーマにしたときと比べて、応募資格まで書き加えたことによって応募総数が全く読めません。全然来なかったらどうしようという不安があるのは確かです。それに、『鳩のおとむらい』で私を知った方には、今回の企画は驚かれるかもしれないという思いもありました。鳩は選考なしでしたが、今度は選考しますと言っているので、なんだか風邪を引きそうでもあります。そもそもまだ何の賞もとっていない、ほとんど無名の人物が突然「ワシが選考する!」と言い出したわけで、何様じゃという感じなのですが、その点は、本来各々勝手にやっていいはずだから、という理由で居心地の悪さをなんとかなだめようとしています。何はともあれ、今はただ待つことしかできません。私は今回小説ではなく、論考に寄ったエッセイを書こうと思っているので、すでに読まなければならない資料が膨れ上がっています。これは、どこかで「これで終わり!」と決めなければ、そのまま資料の束に呑まれることになりますね。小林敏明『故郷喪失の時代』をまず読んでいるのですが、これを読み終わるまでに目を通すべき資料が一体何冊増えることやら、といった状態です。『苦海浄土』はやはり読まなければならないでしょう。引用に『家郷喪失の時代』と題されたまた別の本が出てきたりもして、これも読んだ方が絶対いいじゃん! と慌てています。文藝賞に向けて原稿を書いている途中なのですが、正直そちらの作業を放り出しそうになっています。締切まであと60日程度しかないようなのですが、まだ30枚も書けていません。まったく間に合う気がせず、しかも本をつくるなんて言い出して、自分のことながら何がしたいんだ、と思ってしまいます。私生活でも忙しくなっており、一体どうなっちゃうの〜? といった状態です。どうなっちゃうんでしょうね。
 「大移動」の語りについてのご質問ありがとうございます。仰るとおり勇気がいりました。「大移動」の地の文は大型インコやオウムを想定して書いています。かれらは人間の幼児程度の知能を有していると言われることもあるので、その一文を根拠になんとか踏み切った形です。ただし、幼児程度の知能がどのようなものなのかは私にはわかりません。この地の文ではところどころ嘘をついています。かれらが木を木として認識しているのか、ひまわりをひまわりの種として認識しているのかわかりませんし、自分のクチバシや脚についてどのような言葉で呼んでいるのか、そもそも言葉という概念を有しているのか、そうしたことが全く不明だったので、地の文でそれらの言葉を使っているのは、端的に言って読む人間のためですし人間の都合にすぎません。しかしはっきりしているのは、かれらが人間の言葉を真似るのはそれに対して人間が特別なリアクションをするからだということです。かれら自身が、どういった思いで人間の言葉を真似るのかまではわかりませんが、それをすれば目の前の存在がリアクションを(そしてそれはポジティブなものが多い)返しくれることがわかっているのだと思います。だから、かれらが目の前の存在を喜ばせたいとき、人間の言葉を真似るのではないかな、と私は考えています。それがあのラストにつながっています。
 元々私は動物番組等の、人間が動物の気持ちを代弁したようなナレーションがとても苦手です。今後動物小説を書くかどうかはわかりませんが、書くとすればめちゃくちゃ悩むと思います。しかし、人間が動物からの親愛の情を読み取ることがあるのは事実ですし、それが人間側の錯覚であろうとも書く意味はあるのかなと思います。一方で、動物は物語のなかではモチーフや象徴として使われることがあります。これも個人的にはそこまで好きではありません。動物を動物のまま書けたら最高なのになと思います。難しいんですけどね。そう、それでここ最近ずっと肉を食べることについて悩んでいました。動物を動物のまま書きたい、人間と動物を作中で対等に扱いたいと思ったときに、私は作者は作者だからと切り離すことができませんでした。作中で人間と動物が対等に扱われるのなら、現実世界でも人間と動物は対等に扱われるべきだという信念が拭えませんでした(対等、ということも何を以て対等とするのか悩みどころではありますが)。そこで、まだ始めたばかりですけど最近は菜食を実践しています。といっても、家庭の事情で魚だけはまだ食べているので、正確には菜食ではありませんね。決して魚は対等に扱わないというわけではなく、様々な妥協のうえでこうなりました。スーパーに行っても肉を買わないだけなので、実質的には貧乏大学生の食事(でもちょっとバリエーションがある)みたいな感じで、たいした不便は今のところ感じていません。しかし自炊の回数は当然増えるので、その点はやっぱり「頑張って」やってるな感があります。ピーター・シンガーの『動物の解放』は、人間を種差別主義者であると断じ、動物の権利について一石を投じた本ですが、その本の中ではヴィーガンというのは周囲にヴィーガンを広めてこそ、という論調です。そのため私も本来であれば菜食を実践していることを公表すべきなのでしょうが、積極的にできていないのは魚を食べている後ろめたさがあるからです。難しいですね。
 思ったよりいっぱい書いてしまいました。お返事はゆっくりで大丈夫です。それにしても他の方へのお手紙も見ていて思ったのですが、乗代雄介『旅する練習』は読んでみたいですね(……と思っていたら、『旅する練習』が掲載された群像を持っていたことを思い出しました。本になるにあたって加筆修正があったかもしれませんが、取り急ぎ群像版で読んでみます)。ではまた。
 追伸:先日HUBに行ったとき、キューバリブレがあったので『末必のマクベス』を思い出しながら飲みました。

藤井より