アホウドリ

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 夕方、家にもどってくると、部屋の真ん中に大きな卵があった。おそろしく大きな卵である。机の上から零れ落ちそうなほどの大きさで、それ相応にふくらんでいる。かすかに左右にゆれていた。なんとも不思議でならず、そろりそろりとナイフで裂いた。もう十分に孵化していたのだ。殻がとびちって、中からアホウドリに似たやつが跳び出してきた。赤むけのまる裸だが、ちょっぴり翼がはえていて、しきりにそいつをバタつかせている。
「この世で何をしようというのかね?」
 鳥の前にしゃがみこみ、不安そうにパチクリさせている目をのぞきこんだところ、やおら逃げ出した。そのままふらつきながら壁ぞいに跳びはねていく。
「まあ生まれ落ちたもの同士じゃないか」
 こちらに警戒して部屋の隅っこで本をつついている鳥を、テーブルに招いた。鳥のクチバシが本の塔をぐらつかせ、雪崩が起こった。鳥は驚いて飛び退き、仕方なしにこちらへのこのことやってきた。椅子にとまる。ソーセージの薄切りを前においてやると、ピーピー鳴きながら嗅ぎはじめた。しかし食べるには至らないようで、口元へ持ってやっても払い落とされてしまう。
「早トチリってこと」
と私は思った。
「生まれてすぐにソーセージを食べさせるなんて。いやはや人間ってやつは。アホウドリなのだからむろん魚が大好物に決まっている」
 そのとき頭にひらめいた。
「魚をうんとたっぷり手に入れてやろうじゃないか。しかし、タダというわけにはいかない。こちらに鳥を飼える余裕なんてないんだ。しかるべき返礼を申し受けようじゃないか。アホウドリにちがいはないだろう。ならば成長のあかつきには、恩返しに南の国へ運んでおくれ。ながらく行きたいと思っていた。翼がないばかりに我慢していたのだ」
 腕をひらひらとさせて、アホウドリに翼のないことをよく見せた。アホウドリはつぶらな瞳でこちらをじっと見つめるばかりである。
 紙と朱肉を持ってきて、鳥の脚を朱肉へ浸した。相手はいたっておとなしく、私のすることに抗う様子はない。
「私儀、アホウドリ状の鳥は、巣立ちの日までに供された魚、イカ、オキアミ(あとの二つはアホウドリの好物らしく、大して高いものでもないので追加した)の御礼として、貴殿を背中にのせて南方の国々へとお運びすることを誓います」
 朱肉のべったりとついた脚をぬぐってやり、あらためて契約書を鳥の目の前にかざし、それから鍵付きの引き出しへ厳重に保管した。
 さっそく魚屋へひとっ走り。けっこうな値段になったが、魚屋の主人は次回までにイカやオキアミをうんと取り揃えておく、古い魚もより分けておこうと受け合った。となれば南方旅行もそう高くはつかないだろう。さもうまそうに食べているのを見ると、こちらも嬉しい。赤むけの腹が、ゴクリと魚をのみこむたびにみるみるとふくらんでいった。
 鳥は一日一日とみるまに大きくなっていった。その成長の早いことといったら人間の比ではない。次第に白くふわふわとした綿毛が生え揃ってきて、その羽がさらにもこもこと膨らむので一回りも二回りも巨大に見える。狭い部屋だからどこにいてもアホウドリの姿が目に入る。大きくなっていくにつれ飼育の難も増えていった。部屋中に腐った魚の臭いが染み付いた。難しいのが糞の始末で、トイレの場所など覚えられるはずもないからところかしこに糞をする。それを目ざとく見つけ、迅速に片付けるのは楽ではなかった。
「わかった、こうしよう」
 私は透明な仕切りをしつらえた。
「こちらが君の領分、あちらは私というわけだ」
 部屋を透明な壁が阻み、確かに狭いとはいえそれがどうだというのか。この成長速度で行けば、春がくれば眩しい南国の光が待ち構えているのだから。
「おっと、これはもらっていくよ」
 ふと目についたのは、アホウドリがやってきた初日に倒した書物の束であった。倒されたのをせっせと仕切りの向こうへ移動させているうちに、ふとある本が目についた。カフカの寓話集だった。
「南へ行くころにはひとりではいられなくなるだろう。どれ、ひとつアホウドリとして恥をかかない最低限の教養を授けてやっておこうではないか」
 残念ながら母鳥がいない。相手にその気がなければ、いくら読み聞かせても役立たないものだが、母鳥のいないぶん、そうしたことにはかくべつの注意と努力でおぎなってやらなくてはならない。
「伝わるところによると皇帝はきみに——一介の市民、哀れな臣民、皇帝の光輝のなかではすべもなく逃れていくシミのような影、そんなきみのところに死の床から一人の使者をつかわした……」
 アホウドリは興味なさげに床をぺたぺたと歩き回っている。
「まあはじめはこんなものだろう」
 続けて読み進めた。
「オアシスで野営した。同行者は眠っている。背の高い白衣のアラビア人が、すぐそばをとおっていく。駱駝の世話をしていたのだ。寝場所へと去った」
 アホウドリはその場にペタリと座り込んだ。何も考えていなさそうな表情で、惰性の羽繕いを始めた。
「アラビア人や駱駝がぴんとこなかったのだな」
 私は納得した。
「学会の諸先生方! かたじけなくも、猿であったころの前身につき当学会で報告せよとの要請をいただきまして、いまここにまかり出た次第であります」
 アホウドリがばっとこちらを見た。じっと私の方を見て、傾聴の姿勢をとったように思われた。先の二つとは明らかに異なる反応に、少しの期待を抱きながら続けて朗読した。
「……ところで出口とは何か、先生方には正確に理解されているでしょうか。私は少々の懸念を抱かざるを得ないのです。ごく通常の、いたって普通の意味合いで用いているのでありまして、敢えて自由とは申したくない。あらゆる方向にひらいた、大いなる自由のことを申しているのではないのです。これは猿のころから知っていましたし、この種の自由に恋こがれているお方とも知り合いました。私個人といたしましては、昔も今も自由など望みません。ついでにひとこと申しておきましょう。人間はあまりにしばしば自由に幻惑されてはいないでしょうか……」
 アホウドリが、バッサバッサと翼を動かした。そして、台の上にのぼると、羽ばたいて飛び降りた。見事な滑空だった。アホウドリは首を傾げたあと、続いて机の端、続いて棚と段階を経て順々に飛び降りた。ツィーと上手く風を切った。
 アホウドリは、明らかにその物語を気に入っていた。私は魚をやったあと、それを読み聞かせることを日課にせざるを得なかった。それを聞いている間は、アホウドリは静かに目を閉じているか、部屋をばさばさと飛び回っているか、つまり静と動のどちらか極端に振れた行動をとることが多かった。あまりに見事に飛ぶので、日に日に仕切りをこちらへずらして、アホウドリの領分を広げてやらねばならなかった。ソーセージを食べることをやめ、アホウドリの食べる魚の切れ端やイカやオキアミを炙ったものを共に味わうようになった。
 ある夜帰宅してみると、見知らぬ人間の声がする。玄関にあった箒をとっさに手に取り、勢いよくドアを開け放った。部屋にはアホウドリがいるのみ。辺り一面に羽根が散乱している。仕切りは部屋を三対一で区分しており、私は一の区画へ足を踏み入れるなり箒を掲げた腕をおろした。
「自由などほしくありません。出口さえあればいいのです。右であれ左であれ、どこに向けてであれですね、ただこれ一つを願いました。それが錯覚であろうともかまわない、要求がささやかならば錯覚もまたささやかなものであるはずです。木箱の壁に押しつけられて、ひたすら膝をかかえているなど、まっぴら! どこかへ、どこかへ出て行く!」
 アホウドリが流暢に喋っていた。そしてバサバサと私の背丈ほども大きくなった翼を広げ部屋をぐるりと回るのだった。
 呆気にとられる私を見て、アホウドリは「よう、兄弟(きょうでえ)!」と呼びかけた。
 
 仕切りは撤廃のはこびとなった。私とアホウドリは同じ部屋に囚われた同志だった。冬の厳しい時間を共に耐え、あるときは滑空の訓練を行い、あるときは物語を暗唱した。アホウドリがすらすらと朗読するのを受けて、私も同じ物語を暗記することにした。
「鳥風情には負けていられないさ」
 アホウドリは通じているのかいないのか、カッカッと魚の切り身をつついていた。
 よほど気に入ったのだろう、それ以外を覚えさせてみようと何度も試みたが、鳥はやはりその他の物語には目もくれず、目を離せばその隙に「学会の諸先生方!」と演説をぶちはじめるのであった。仕方がないので私が先生役として聞き手に回ることが増えた。鳥はカツカツと部屋を歩き回り、あるときは羽をばさりと広げ、またあるときはクチバシで床をコツコツと鳴らしながら物語を暗唱し続けた。
 ついに出発のときが来た。この日のために、できるだけ鳥の負担になることは避けようと体重を落としていたが、魚を主食にした甲斐もあってか順調に私の体は引き締まっていた。アホウドリはすっかり成鳥の羽を生やし、ゴツゴツとした脚は、かつて朱肉でサインした足型の大きさの五倍ほどもあった。飛行にあたっては、そのつど入念、かつはくり返し練習した。あとはこの大空で実践を行うのみである。
 私はアホウドリとともに部屋の外へ一歩踏み出した。飛行にはうってつけの天気である。アホウドリは初めて目にした太陽に多少面食らったようだった。しかしそれらが我々の旅路を妨げるどころか後押しする寛大な光であることを悟り、バサバサと小さく羽ばたくのみにとどまった。それからアホウドリは心得ていると言わんばかりに胸を張った。
「学会の諸先生方!」
 突然、竜巻がやってきた。空が白く濁ったかと思えばそれは巨大なアホウドリたちの大群で、何百、何千羽もくだらないアホウドリたちが騒がしくこちらへ突っ込んできた。大群の運んできた突風は家を破壊し、四方の壁を暴力的に抉り取った。部屋の隅に追いやられていた仕切りだけが直立していて、しかしやがてそれもどこかへ飛び去った。あとには何も残らなかった。我々はなすすべもなくはるかかなたへ舞い上げられた。

 (参考:池内紀 編訳『カフカ寓話集』岩波文庫、一九九八)