ニューギニアのマニア

Worksカフカ,小説

 二◯二三年、七月九日。日曜。また日記をつけることが、是非とも必要になって来た。わたしのあやふやな頭脳、書くことが体力的に出来ないこと、及び書くことへの内面的欲求。
 
 
 七月十二日。眠っては眼を覚まし、眠っては眼を覚ます。みじめな生活。
 
 
 七月十四日。精神科への通院。毎朝三時に中途覚醒を挟み八時に起床。十九時ごろになると、この世界に意識を持って存在することのままならなさに耐え難くなり、睡眠導入剤を服用する。しかしそれらは効きが悪く、大抵はいつも日付が変わるころにならなければ入眠がかなわない。以上の状態を数ヶ月繰り返している旨を説明すると、睡眠導入剤の量が増えた。また、医師はわたしが同居人を同居人と呼ぶことに対して「恋人のことをどうして同居人と呼ぶのか」と追及する。恋愛感情がどういうものかわからないからだと答えると、それがあなたのよいところでもあります、と返答がある。
 
 
 よく考えてみると、わたしの受けた教育は、いろいろの点でわたしに非常な害毒を及ぼしたと、言わざるをえない。もっとも、わたしはどこか辺鄙なところで、例えば山の中の廃墟で教育を受けたわけではない。そういう教育だったら、わたしは一言半句も非難のことばを口に出すことはできないだろう。どうせ、わたしの昔の教師たちの誰にも分かって貰えないだろうが、わたしとしてはそうしたささやかな廃墟の住人になりたかったのだ。何よりもそうした住人になりたかったのだ。そして、辺り一面の瓦礫のあいだに生いしげった気持ちのいいきづたの上に寝そべっているわたしの頭上に照りつける陽に、身を灼きたかった。仮にわたしが、雑草のちからをえてわたしのうちに成長してきた、わたしのよき資質に押さえられて、はじめはひよわであったとしても。
 
 
 いくどもわたしは熟考してみるのだが、そのたびにいつも、わたしの受けた教育は、いろいろの点でわたしに非常な害毒を及ぼしたと言わざるをえない。
 ことによると、わたしはどこか辺鄙なところで教育を受けたのだろうと、思われているかも知れん。ところが、わたしは都会のまんなかで教育を受けたのだ。都会のまんなかで。例えば、山のなかの廃墟とか海辺とかいうようなところではない。わたしの両親やその身内は、これまでわたしの非難の手によって暗く覆われていたが、今やそれを軽く払いのけて微笑している。わたしが彼らからわたしの手をのけて自分の額にあてがい、こんなことを考えているからだ。わたしはささやかな廃墟の住人となって、影をおとしながら飛び去ってゆく鴉どもの叫び声に聞きいり、月光の下で思いきり身を冷やすべきであった。仮にわたしが、廃墟の瓦礫のあいだをとおしてわたしのきづたの寝床の上に四方から照りつける陽に灼かれて、わたしのうちに雑草の力をえて成長するはずの、わたしのよき資質に押さえられて、はじめは多少ひよわであったにしても。
 
 
 七月十五日。Amazonのプライムデーに乗せられ購入したクロックスのサンダルがキャンセルできずに朝方届いた。仕方がないのでそれを履くために図書館に行く。極楽鳥にまつわる洋書を頼んでいる。司書の眼鏡の奥に灯る怜悧な目つき。本はわたしの予想していた大きさを遥かに上回っている。学名論と題された書物も併せて借りる。Paradisaeidaeの学名は貴族や王族に捧げられることが多かったために、この風潮に反発を示した共和制の理想主義者であった鳥類学者がアカミノフウチョウにCicinnurus respublicaと命名した。命名者はシャルル・リュシアン・ボナパルト。
 
 
 七月十七日。海の日。極楽鳥の博物画を眺める。Cicinnurus respublicaは体長十六センチメートル。オスの羽毛は赤と黒で、上背は黄色、口内は蛍光の薄緑色、脚は鮮やかな青色。尾羽は紫色で、双葉の形を描く二本の歪曲したリボンのようである。頭部は禿げあがり蛍光の水色をしていて、黒い二重十字模様が走っている。
 
 
 七月十八日。とりたててなにもなし。
 
 
 その手前にあるものを暴き出そうともがいている。わたしは自分ひとりのために小説を書きます、わたしは自分ひとりのために小説を書きますと、干からびた付箋にサインをし、机に貼り付けた。陽の差さない部屋。祖父母にはもう先が無いのだから連絡をしてやってくださいと母親。母親を見ていると可哀想になるので連絡をしてやってくださいと父親。東京の人は金が有り余っているでしょうから祖父母に送金してやってくださいと従兄。彼らからわたしの手をのけて自分の額にあてがい、礫に覆われた海辺を想像している。どうせ、わたしの親族たちの誰にも分かって貰えないだろうが、わたしとしてはそうしたささやかな廃墟の住人になりたかったのだ。何よりもそうした住人になりたかったのだ。ひたひたと海岸を歩き回り、濡れて縞模様がくっきりと見える親指ほどの石ころ、ヤドカリが脱ぎ捨てていった赤い巻き貝、クレーターのある丸みを帯びたシーグラス。彼はひとつひとつを月明かりに透かし、しげしげと眺めたあとにポケットへ忍ばせる。それらの拾い物は、箪笥の一角にある鍵付きの引き出しにしまわれる。その日も静かな波音を聞きながら彼はじゃりじゃりと濡れた足音を響かせ海岸を徘徊していた。
 
 
 七月十九日。突如、月が爆発した。辺りが真昼のように明るくなり、光る球は膨張し、音もなく弾けた。欠けた月からはざぁざぁと滝がこぼれはじめた。砂地獄のように月の破片から何かが、こちらへと向かって滑り落ちてきた。滝は海まで続いていて、彼にはその滝の麓と潮とがじわじわと混ざり合う場所が見えた。彼が呆然とその光景の前に佇んでいるとき、彼ははっきりと、予兆を感じ取っていた。それは明日がいつも通りにやってくることなど金輪際ないという確信だった。自分が終わりのない螺旋に捕らえられたのだと悟り、これまで生きてきた記憶を失うであろうことをも理解した。彼は不思議と冷静で、しかしそれはまだ、彼を苛んだ予兆が実際には一体どういうこととして顕れるのか理解しきれていないだけだったのかもしれない。彼は念じた。半ば挑発するように月の瀑布に問いかけた。「奪うだけ奪うのか?」と。滝は一瞬勢いを増したかのように見えたが、すぐに元通りのさらさらとした静かな流れに戻った。その夜は、それっきりで、ここから彼の記憶はすっかり途切れている。
 
 
 突如、月が爆発した。光る球が膨張し、音もなく弾けた。辺りは一瞬真昼のように明るくなったが、やがて潮が引くように闇が戻ってきた。月だけが異常な快活さでぎらぎらと輝いている。爆発で上部が欠けたようだった。月の落ち窪んだ場所からざぁざぁと何かがこぼれはじめる。それは砂地獄のようにして海に向かって滑り落ちてくる。彼は呆然と立ちすくむほかなかった。月の瀑布はさらさら海へと流れ込み、潮が月の水と反応してほのかに発光し始めた。オパール色の美しい輝きだった。しかしそれはどこか禍々しく、ひとたび触れてしまえば無事でいられはしない代物であることは確かだった。
 一部始終を目撃したのはこの島で、いやこの世界で彼だけだった。彼は全身から力が抜けていくのを感じた。吸われる、と彼は思った。咄嗟に踏ん張ったが、ふらついて浜辺に膝をついた。そして、ここから彼の記憶はすっかり途切れている。
 
 
 七月二十日。ひどいことだ。今日は何も書けないし、明日は暇がない。
 
 
 七月二十二日。家を出ると大通りで祭りがあった。どこにひそんでいたのかわからぬほど大勢の子らが浴衣姿で練り歩き、神社の石段に腰掛け、かき氷を食べていた。人の波は絶えず押し寄せ、わたしはそれを打ち返すちからを持たない。
 
 
 七月二十三日。抜刀した。
 
 
 ニューギニア島西部のウェイランド山脈から東部のクラトケ山脈およびギルウェ山までの海抜千三百から二千八百五十メートルの間に生息するPteridophora albertiのオスは、黒と黄の派手な羽色に黒光りする嘴、エナメルブルーの二枚の著しく長い眉羽を持つ。この吹き流しは鳥の意思で独立して立てることができ、ディスプレイの際にせわしなく跳ね上げたり下げたりして、メスを誘惑する。ある日、Pteridophora albertiは思い立ち、極楽から舞い降りて新たな極楽を探す旅に出た。どこまで降下しても熱帯林が続くばかりだったが、やがて緑の地帯を抜け視界に青が飛び込んできた。喜んだPteridophora albertiはさらに勢いよく急降下し、やがて彼は海へと深く沈んでいった。Chirodectes maculatusはハコクラゲの一種で、そのとき海中深くを泳いでいたが、そこへPteridophora albertiがやってきて、彼の吹き流しとChirodectes maculatusの触手が絡まってしまった。しかしPteridophora albertiChirodectes maculatusも大して気にすることはなく、彼らはそのまま流れに身を任せ海を漂い続けた。
 
 わたしたち魚族は、四方八方から抱き支えられていて、水中ではすっかり安心して、むつまやらかに休らっています。上下左右どの方向にも動けますし、どの道を行こうと、力強い水がわたしたちの価値を認めて、魚の形に応じて変身してくれます。ですから、自分たちが昇っているのか沈んでいるのかも全然知らず、いつもすっかり安定しているのです。
                ——カーレン・ブリクセン
 
 
 彼らがわたしに好意から害毒を及ぼしたことは、彼らの罪を一層大きくしている。
 
 
 七月二十五日。日記とは本質的に未完であり、日記に序列をつけることなどできない。人々は「物語」を求めており、その断片や日々の些末な事柄の羅列は彼らを疎ませる。
 
 
 七月二十七日。近代西欧の日記の起源はもともと帳簿であったという説を目にし、とある小説で、富豪が夜ごと使用人に帳簿を読み上げさせるシーンがあることを思い出した。日記は夜書くものだ。わたしは毎夜わたしの愛する睡魔がわたしを不器用な眠りに誘うその前に、Wordの四角い枠をぼんやりと見つめている。上部にはWord以外では目にすることのないような青色の、無機質なバーが無言で横たわり、絶えずわたしの視界を圧迫し続けている。わたしはその日あったことをその枠の中へ書き込むが、ここには制限がある。わたしは与えられた制限に沿って、その日あったことを殺し、あるいは捻じ曲げ、あるいは付け足して、そのようにして日記は更新され続けた。
 
 
 七月二十九日。日記がたとえば過去にわたしに起こったことを思い出させる装置として期待されていたとして、しかしそこに書かれていることはわたしの知らない誰かがわたしのふりをしてわたしの記憶を偽って勝手気ままに書き込んだものであり、そこから想起された過去のわたしは既にわたしをたった今追い越していった、わたしは追いかけて、追いつくことはできたのだったが、そこから果たして何人何脚までが可能なのかを確かめる試みが始められ、いまのところわたしは横に長いが前にも後ろにも上にも下にも長くなることもそろそろ考え始めたいと思っていたところでそれはわたし何号から発されたものであるかわたしにはわからずじまいだったがしかしニューロンのような形態となれば上下左右前後全方向に拡張可能なのではないかということに思いを馳せながらまた新たなわたしではない何かがそこに書き加えられ片方の手があまるので早くその隙間を埋めたくなりわたしはさらにそうして書き始め書き始めるたびにわたしの隣にいたはずのわたしがわたしでなくなっていくのを為す術もなく見送ることとなるもわたしはわたしでわたしは誰だったかとそんなことすらどうでもよくただそこには手だけがあってキーボードと呼ばれる板を少し立ち止まり少し加速し少したどたどしく叩き続けているのみであった、
 
 
 七月三十日。半年前、両親から絶縁宣言とも取れる手紙を受け取り審議の結果すべての連絡を絶ち、しかし一つくらい何かしらの抜け道を用意しておかねばいろいろの不都合があるだろうと勘案し、親族の連絡は一つのメールアドレス以外では受けないこととした。そのアドレスの文字列はいい加減な連想ゲームをもって「ニューギニアのマニア」と定められることとなったのだが、実際にそれまでわたしがニューギニアのマニアであるといったような事実は決してなかった。しかし調べてみると、ニューギニアはわたしの敬愛してやまないParadisaeidaeの鳥たちの生息地であるとのことだったのでやはりわたしにはニューギニアのマニアを名乗る資格があるのではないかと考えを改めた。「ニューギニアのマニア」からの連絡はもちろんわたしの感情を快の方向へ傾けるようなものでは決してなかったが、七月の初めに二十六歳の誕生日を迎えた際、弟からそれを祝うささやかな連絡を受けたことは非常に嬉しかった。
 
 
 七月三十一日。
 よくよく考えてみると、わたしの受けた教育は様々な点でわたしに非常な害毒を及ぼしたと言わざるをえない。もっともわたしはどこか辺鄙なところ、例えば山の中の廃墟などで教育を受けたわけではない。田舎とも都会ともつかぬ街に生まれ、公立学校へ通い、地元で最も偏差値の高い高校へと進学し、県外の国立大学へ脱出した。その先は特にない。わたしは自室を得て、そこではささやかな廃墟の住人になることができた。わたしは辺り一面の瓦礫をいつでも思い浮かべることができたし、健やかに生えたきづたの上に寝そべって、わたしの頭上を鳥が悠々と飛んでゆくさまを眺めることすらできた。わたしはこれまで得られなかった雑草のちからを得てわたしのうちに新たな庭を創造するすべを身につけつつあった。わたしはかつて百円ショップで購入した何の変哲もない植木鉢にカモミールの種を植えてみたことがあったが、数日単位で水をやることを忘れることもしばしばだった。しかしカモミールはわたしと関係しない場所にいて、小さくとも数輪の花をつけるまでに成長し、そして花の一生を全うすると潔く枯れ去った。わたしは庭をつくる。たとえそれがはじめはひよわであろうとも、いずれはわたしを超えてその地に緑が深々と生い茂るだろう。わたしはしばし心地の良い芝生の上に寝そべってわたしの視界を覆いつくす鮮緑の巨大な葉のかげで涼むだろう。目の端に青い空を見上げると、そこではCicinnurus respublicaPteridophora albertiをはじめとしたParadisaeidaeの鳥たちが風を受けて飛び回っている。