管啓次郎『本は読めないものだから心配するな』感想

DiaryC0195,書籍感想

管啓次郎『本は読めないものだから心配するな』(ちくま文庫)

https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480437662/

読み始め:8/1  読み終わり:8/3

あらすじ・概要
本を読む。忘れる。それは当たり前。内容を覚えてなくても、「読めた」と言えなくても、心配しなくていい。よろこびをもって前に進もう。本書は読書をめぐる思索の書であり、古今東西あらゆる本をめぐるブックガイドであり、世界中の土地や文化について学ぶ手引きである。読めば、心のお天気が変わる。また本を読みたくなる。読む人に勇気を与える「読書の実用論」。

読んだきっかけ
人との会話で話題に出したのをきっかけに、もう一度読み直してみようと思った。

コメント・感想
 本が読めないとその人は言った。一文ずつ細かい意味を捉えようとするあまり、それに足を取られて進めなくなる。たとえば書かれた年代を見て、その年代には何が起こったのだろう、筆者にとってはどんな年だったのだろうかということに思いを馳せることによって。たとえば「少年よ」と書かれた言葉を見て、ここで言われている少年とはどのような存在であるかと思考の迷路に嵌まり込むことによって。あまりに作者の思考を内面化する方向に進みすぎてしまうのだとその人は言う。対して、私は分からないものがあってもそういうものだとして気にせず読み進めてしまう性格をしている。そういうものだろうと思って、しかし読み終わったあとには何かが「わからなかったこと」すらさっぱり忘れてしまうのだった。さて、どちらが本を読めているのだろうか。正解はどちらも、なのだが、ここではひとまずそうしたことは置いておいて「本が読めない」という悩みそのものに対して特効薬となるのではという本を思い出して、『本は読めないものだから心配するな』を勧めることにした。
 それで、私も久しぶりにこの本を読み返してみたのだが、まあ本当に内容を覚えていない。私はかつて一体何を読んだのだろう。「本は読めないものだから心配するな」この言葉以外に何一つ覚えていなかっただなんて。この本が、画期的なブックガイドであること、旅ということへの澄んだ省察に満ち溢れたものであること、世界と翻訳と言語に関する愛に溢れた書物であること、完全に忘れ去っていた。改めて今読み返せてよかったと思う。
 この本を読むたびに「ああ、悲しき熱帯を読まなければ」と思うのに毎回忘れている。今度こそ読まなければ。エッセイ集ではあるのだが、そう分類することに抵抗を感じるほど、なんだか言葉一つ一つが生々しい。まだ生きているのではないかと思う。文字は死んでそこにあるはずのものなのに。現代詩を読まねばと感じてちょうど現代詩文庫の田村隆一詩集を読んでいるときに、「詩はいつもそこにある」という項でその引用がちょうど出てきたりだとか、状況のアーカイブについて関心を抱いているときに「旅の『その場性』を担うもっとも重要な感覚は、(中略)触覚だ」という言葉が飛び込んできたりする。荒川修作とヘレン・ケラーについて思いを馳せているときに、全くドンピシャな場所が引用されていたり、武満徹が南の島でその島の音楽を聴いたときの話を読んだあとに、同じように南の島でその島の音楽を聴いたという記述を見つけたり、そうした最近の自分の読書とクロスオーバーしてくる箇所がいくつかあって、うっすらと自分の場所が照らし出されたような気がした。もっとも、またすぐに元の暗闇へ逆戻りしてしまうのだが。
 読むと旅に出たくなる。むしろなぜ旅に出ていないのだろうと不思議な気持ちになる。そして、私が旅について考えるとき必ず自身の性を恨む。男性だったらよかった。きっと男性のほうが今だって旅に出やすいものだと思う。うらやましい。私にとって旅はそうした二重の距離を持っている。もちろん女性で一人旅をしている人がたくさんいることは知っている。そういう話ではないのだ。これじゃない肉体で、旅に出てみたかった。
 最後に。この本で良いのは、ノンブル部分に書かれた言葉が1ページごとに変化すること。ここだけ読んでもこの本を読んだことになると思う。面白いのに他の本で見かけないのは不思議だ。