阿南トマソン

Works,公募小説,阿波しらさぎ

 折野から連絡があったのは土曜の晩だった。フェリーの外観を添えた海景色をインスタグラムに投稿したところ、わたしが乗っているそれが南海フェリーの「かつらぎ」であることを指摘されたのだ。折野のアカウントは数年動いていなかったので突然のDMに多少面食らったものの、「出張でしばらくいる」と返すと、阿南で喫茶店をやっているから遊びに来いという。折野とは大学以来で、こうしてSNSでだけなんとなく繋がっている関係だったわけだが、明日はちょうど仕事もなかったので快諾した。
 徳島から阿南まで海沿いを車で一時間ほど。見渡す限り田園で、遠くにはなだらかな山々が青く連なっている。どこまでも見通せるほどの快晴に目を細めていると、道路脇に突如としてその建物が現れた。荘厳な巨大建造物。赤茶けた煉瓦造りの、広大な敷地を持つ「城」が堂々と佇んでいた。建物全体を覆い尽くすように蔦が這っており、近寄りがたさに拍車をかけている。道路側に『喫茶ダイキ』と看板が掲げられているので、やはりここなのだと分かった。看板には先のない螺旋階段が巻き付いていて、それが不思議と心地良く、周囲の長閑な風景と奇妙な調和を見せていた。
 入口らしきものを見つけられず、しばらく建物の周囲を歩き回った。やがて上へと向かう緩やかな坂道が見つかり、恐る恐る煉瓦に体重を乗せた。びくともしない。折野から事前に、
「煉瓦を焼くところからすべて自分一人で成し遂げたセルフビルド建築」
だと聞いていたので、ついあちこち触れて確かめてしまう。素人でもこんなものが建てられるのかと信じられない気持ちだったが、現にわたしはその素人建築に身を委ねているのであり、見た目のわりに、崩壊しそうな場所や杜撰に煉瓦が積まれた場所などはどこにも見当たらない。驚愕しながら歩を進める。
 坂道を登りきると再び『喫茶ダイキ OPEN』と控えめな看板があり、この道で正しかったのかと軽く安堵しながらわたしは木製の扉を開けた。
「おお、岡本。久しぶり」
 折野がカウンター越しに声を掛けてきた。学生のころから伸ばしていた長髪はまだ切らずにいたようで、後ろで馬の尾の如く括られている。腕まくりをしたワイシャツから浅黒い肌が覗いており、そうだった、学生の頃もこんなふうに健康的な見た目をしている奴だったと当時を一瞬で思い出す。店内は、剥き出しの煉瓦を除けばいたって普通の喫茶店で、改めてこれが折野一人の仕事なのだとは信じがたい気分にさせられた。
 言われるがままカウンター席に座ると、何の脈絡もなくすだちうどんが出てきた。すだちの輪切りが丼の中をくるくると回転しており、歯車のように表面を埋め尽くして蠢いている。
「まずおなかをおこしてもらわんと」
 どうやらはるばる徳島まで来たからという、折野なりの歓迎らしい。ちょうど空腹ではあったのでありがたかった。
 折野が珈琲豆を挽く。ブウウウンと電動ミルの騒音と珈琲の芳香が飛び散った。フラスコで湯を沸かし、ロートに粉を入れて掻き混ぜる。折野の慣れた手つきを眺めながら、わたしはあれから留年したこと、医薬品メーカーの医療情報担当者になったこと、徳島へもその出張でやってきたことなど、大学を出てからのことを簡単に語り、まさか大学を中退して喫茶店をやっているとは思わなかった旨を、折野がサイフォンで珈琲を淹れきるまでに話し終えた。
 折野がわたしの前に珈琲を置いて、腰に手を当てた。しばらく斜め上を見ていたかと思うと、徐ろに大学時代に出会ったある女のことを語り始めた。
 折野は大学時代、個人経営の古びたビジネスホテルでアルバイトをしていたらしい。研修として館内を案内されたのだが、そのホテルはどこもかしこも増改築が繰り返された違法建築だった。屋上まで続く、細く急な階段を登りきるとオーナーが別荘のように使っているプレハブ小屋が目についた。屋上の床にはよく分からないパイプが何本も這っていて、そのパイプの隙間に棒が突き立てられている。棒の先からはロープが張られ、そこに白いタオルが何枚も掛けられて風にそよいでいた。
 案内してくれたのは、三十代ほどの幸薄そうな女だったという。黒髪をショートボブにして、目には光がなく、幽霊のように館内を彷徨い妖しげに笑うのだった。彼女は、折野を連れて館内をくまなく案内したあと、最後に廊下の突き当りにやってきた。そこには何の変哲もない扉がつけられていたが、扉には厳重に鍵がかけられていたらしい。女は物置から鍵を持ってきて、南京錠を取り外した。それから折野にこう質問したのだという。
「ねえ、死にたいと思ったことは?」
 女が薄く微笑んで、扉を開けると、突如目の前を鉄の塊が通り過ぎていった。ガタガタと廊下が震えだした。一瞬遅れてそれが電車であることに折野は気づく。その扉の先は、なんと、大阪環状線に直接繋がっていたのである。扉から一歩でも足を踏み出せば、あっという間に線路上に繰り出すことができた。「ここ、絶対お客さんがいるとき開けないでね」と女は笑い、折野はつられて笑った。女はそそくさと扉を閉めたが、その光景は折野を一生掴んで離さなかった。
 アルバイトは順調で、それから数ヶ月ほど続いていたが、ある日を境に扉はもっと厳重に封鎖されることとなった。扉の前には椅子を積み重ねたバリケードが敷かれ、その手前には仕切り板が立てられた。折野がその女を見ることは二度となかった。
 なぜ折野が突然そんな話をし始めたのか、わたしには分からなかった。完食したすだちうどんの表面はゆたゆたと小刻みに波打って、珈琲は湯気を出し切ってすっかり冷めていた。わたしが珈琲を飲み終えるのを見計らっていたように、折野は館内を案内すると言ってわたしを連れて歩き始めた。
 喫茶になっている部分は巨大建造物のほんの一部で、その他にもいくつか部屋があるのだと分かった。煉瓦の廊下を歩く。外から曇りガラスに遮られた柔らかい光がちらちらと差し込んでいる。廊下にはずらりと扉が並べられていた。
 折野が手前の扉を開けると、南国の鳥たちがバサバサと飛び回っていた。数十羽はくだらないだろう。屋上は高く、天窓を通じて、鳥たちは思い思いに日光浴をしていた。壁から煉瓦や蛇口が飛び出ており、その上に黄色い鳥たちがぎゅうぎゅうと詰めて並んでいた。緑の大型の鳥がわたしの目の前を横切っていった。壁から壁にロープが吊られ、その上で白い鳥が朗々と囀っている。床面はコンクリートで、橋や鉄骨、カラーコーンなどが無造作に突き刺さっている。斜めに傾いた赤いコーンの上にちょうど鳥が降り立った。
「ここで鳥たちの里親探しを手伝っているんだ」
と折野は言った。
 次の部屋を開けると、急いた調子の篠笛や鉦鼓の音が飛び込んできた。大きな円を描いて何重にも敷かれたレールの上を、大量の絡繰人形がくるくると回っていた。人形たちは皆、赤い着物で阿波おどりを踊っている。左右の腕を前に突き出すたびに、ギーギーと唸る音が聞こえる。阿波おどりの人形集団は、いくつか設置されたトンネルを潜り抜け、列を崩さずに走行し続けていた。
「この部屋は観光客が喜ぶんだ」
と折野は言った。
 次の部屋を開けると、そこかしこに階段があった。しかしその先には何もなく、天井にめり込んでいたり、途中で階が途切れていたり、そもそも重力の関係で登れなかったりと、すべての階段が役に立たないものばかりだった。
「思い出した」
と私は言った。
「トマソン建築というんだろう。もっとも、意図的にそう造られた建造物をトマソンと呼ぶに相応しいのかは分からないが」
 折野は歯を見せて笑った。それだけで、特に何も言わなかったので不気味だった。
 次の部屋は、ありとあらゆるガードレールや塀などが縦横無尽に床から突き出ていた。
 さらにその次の部屋は、壁にいくつものドアが設置されていた。いくつかのドアは開け放たれ、その向こうには煉瓦がびっしりと敷き詰められているのが見えた。
 どんなつもりで折野はこんなテーマパークをやっているのだろうか。わざわざこんなところで、誰に向けて。一方で、ここ阿南にそうした施設が存在し、市内でもある程度の知名度を得て、地元の物好きはここを観光地として筆頭に挙げるらしい、という事前に調べた知識に対しては妙に納得感もあった。
 廊下に戻ってくるとちょうど突き当りだった。奥にもう一つ扉があったが、折野はその扉が見えていないかのように来た道を戻り始めた。頭を下げて、おどけた様子で「以上になります」と折野は言った。
「どうだ、けっこう面白いだろ」
 わたしは正直、あの最後の扉が気になって上の空だった。鳥があれだけ潜んでいたことには面食らったし、阿波おどりをする絡繰人形もすごいと思ったが、そんなことよりも最後の扉がなぜだか気にかかって仕方がなかった。
 
 結局それについては聞き出せず、なんとなく頃合いになったので退店することにした。もともと大の仲良しといったわけでもなく、いくつか講義が被っていて自然と話すようになった程度の仲で、早々に話題も尽きてしまった。極めつけはわたし以外に来客があったことだ。折野が看板メニューであるらしいナポリタン(すだちうどんではなかったのか)を作り始めたので、それが落ち着くのを待ってから、帰りの挨拶を済ました。
「おお、また来いよ」
と折野は笑っていた。その裏に何もないような顔で、一国の主は終始自然体で、ただにこにこと笑っていた。
 喫茶を出てから、少し外周を見て回ることにした。あの扉の手がかりが何か掴めるかもしれないと思ったというのは少しある。坂道を下り、建物の裏側へ回ると、そこはこぢんまりとした庭園のようになっていた。雑草は生え放題だったが、中央に古代ギリシャ彫刻のような女の像が安置されているのがわかった。その奥は雑木林のようになっていて、そこから先は敷地外のようだ。
 ふと振り返った。ぽっかりと扉があった。ちょうど最後の扉を見た場所に違いなかった。扉は壁の中央ほどに不自然に据え付けられている。わたしは思わず、
「あっ」
と声を漏らした。
 建物の手前両側に、煉瓦の太い柱が二本建っており、その柱から柱まで二本の鉄骨が渡されている。そしてこれは——
「枕木だ……」
 鉄骨の下には木の板が規則正しく並べられ、どこからどう見てもそれは線路にほかならなかった。
 扉から線路まではちょうど飛び移れるほどの距離で、折野の話に出てきたホテルと大阪環状線を再現していることは明らかだった。わたしは何か見てはいけないものを見てしまったような心地になり、そそくさと来た道を戻ろうとした。こころなしか気温が下がったようだった。雑草を揺らしていたそよ風は止み、不当な静けさが辺りを支配した。
「おうい」
 突然、声が降ってきた。ぎょっとした。バクバクと心臓を鳴らしながら、声がしたほうに目を向ける。折野が先ほどの扉から身を乗り出していた。線路ごしに折野と目が合った。
「忘れ物だぞ」
 そう言うと折野は何かを投げた。物体は鉄骨に当たって、カン! と甲高い声で軌道を修正し、ぽとりと私の目の前に落っこちた。わたしの車のキーだった。
「悪い、お客さん待たせてるからさ」
 折野はパタリと扉を閉じた。再び静寂が広がった。
 わたしは胸元を押さえながら駐車場へ急ぎ、覚束ない手つきでキーを挿した。そして、振り返りもせず、ひたすら車を北へと走らせ続けた。