フリー・グーグルトン『高尾症候群』読書メモ

Diary書籍感想,木下古栗

フリー・グーグルトン『高尾症候群』

読み始め:2023/5?  読み終わり:2023/7/8

あらすじ・概要
■専門的志向をもった知的営為としての文学はまだ成立以前の段階にあるという見方をとり、一方では、なぜそのような段階に留まっているのか(あるいは陥っているのか)を素描しながら、また一方では、文学の本質的要素とは何か、知的探求としての文学の方法論とはどのようなものかという概要を示す(ただし主として創作文学の話に限る)。
■上記の対比に加えて、虚構の創作についても、大衆的または通俗的な創作(つまり常に多数派である創作文化)とはどのようなものなのかを素描しながら、それとは対極の、異端的または尖鋭的な創作(つまり常に少数派である創作文化)とはどのようなものかという概観、および後者の探求の方向性を示す。
■これらを本文においては、今世紀初頭からのインターネットの普及、メディア環境の変化による影響なども交えながら、個人的な思索の年代記のような、随筆の形式で記す。さらに注釈においては、本文を補完する情報を提示したり、様々な考察や分析を加えたり、余談を述べたりする(ただし本文と注釈はともに20万字程度であり、必ずしも主と副の関係ではなく、少なくない部分において、むしろ注釈の方に重きが置かれている)。

読んだきっかけ
もともと木下古栗の本が好きだった。

コメント・感想
 非常に面白く読んだ。木下古栗を読んだことがある人は必読だろう。そうでなくても勧めたい。こんなに、誰かの感想が気になる本も珍しい。感想文が全然見つからん。読んだ人は感想をインターネットに書いていってほしい。
 内容については超膨大(本文、注釈ともに20万字程度!)なので、わかりやすくまとめることはしない。木下古栗(フリー・グーグルトン)の興味関心(ワードサラダ、カプグラ症候群、コタール症候群、カフカ、笑い、神経科学、辺境のインターネットなど)に合わせて、2007年から現代(2023年)までを振り返ったエッセイである。木下古栗の創作や文学に対する姿勢や考えをつぶさに辿ることができる。本書の特徴としては、様々な論文や記事の引用、会話の切れ端、個人の逸話などが再構成され時系列順に並べ直されていること、木下古栗(フリー・グーグルトン)視点で語られるも、全体的に匿名性の高い文章になっていること、本作で起こる出来事は創作にすぎず、実際はその中で語られる思索の束こそが本体であること、脚注が本書の半分以上の分量を占めること、などが挙げられる(脚注213に詳細な言及がある)。
 文学という分野には専門的志向が希薄であるという一貫した主張を持ち、蒙昧主義を批判する。個人的には本書の主張に概ね納得できたものの、私にはそもそも筆者のいう「文学」学にまつわる知識が乏しく、つまりは学習不足のためこれといった結論を出すことが不可能である。おそらく私では、筆者ほど先鋭化した結論には辿り着けないだろう。しかし、作中で筆者がカフカの日記や生前の記録などからその創作を技術的に分析してみせるように、この長大な文章は、木下古栗が、木下古栗の諸作品を分析させるために残した記録であるとも捉えることができる。
https://www.1101.com/n/s/furukuri
 かつて、木下古栗がほぼ日刊イトイ新聞にて答えたインタビュー記事があるのだが、『高尾症候群』を読んだのちにこのインタビューを読み返してみると、驚くほど主張がぶれていないことがわかる。このインタビューで答えた内容を、裏付けや引用、具体例を用い更に深く思索し、ちょっとした物語を加えまとめたものこそが本書、ともいえるだろう。逆に、本書の趣旨を簡単に掴みたかったら、先ほど引用したインタビュー記事を読めばいい(ちなみに、インタビューに「高尾山」というワードが登場し思わず笑ってしまった。それすらも筆者の掌上なのではないかと思わされ、恐ろしい)。これらをふまえて再度、木下古栗作品を読み返してみたらどうなるか、個人的には非常に興味をそそられる。今この文章を書いているのは自宅ではないのですぐに資料にあたることができず残念だが、ぱっと思いつくだけでも木下古栗の特徴とされてきた「下ネタの使用」や「茂木健一郎」、そのほかでいうと「視点」や一部の作品に見られる独特な技巧などが、本書と照らし合わせることでより明確に「作者の意図とその成果」として分析できるようになると感じる。夏休みの自由研究としてやってみたい。もちろん、詳細に分析するには、木下古栗が影響を受けたと公言しており、本書でも緻密に取り上げられている「カフカ」についても避けては通れないのだが、そうした足跡を辿る作業込みで、地道にやっていきたい気持ちが湧いてきた。私は、大学の学部も文学部ではなかったし、あらゆる学問に対して「学習不足」であるという自覚がある。実作者ではあるが、経験は乏しい。そのため、どこまで上手くやれるかは分からないが、いずれこのブログで、木下古栗諸作品にまつわる研究記事を上げられたらと思う。総論……は難しいので、最初は各作品ごとになるだろうか。気づいたことを淡々と書き綴るだけの読書メモになる可能性も高いが、何事もやってみなければわからないので、試してみようと思う。
 ちなみに、この『高尾症候群』の文章について気づいたこととしては、専門的な話が多くなることで自ずと一文が長くなったり文章が複雑な構造になったりして、スマートフォンでSNSを見るときとは真逆の脳の使い方を強いられるという点がまず挙げられる。慣れていない人には、大変読みづらい文章に感じると思うが、これは意図的なものだろう。次第に文章のリズムに慣れてきて、読むのが止まらなくなり、普段の現実とはまた異なった時間の流れの上に身を置くことになる。こうした「独特のリズム」の技術は長編では特に使用されがちかと思うが、『高尾症候群』の場合は、あまり会話文が登場しないという特徴も備えている。この「会話文が少ない」という特徴も、高尾症候群固有のリズムを形成するのに一役買っているだろう。また、回想、とはまた異なるが、『高尾症候群』は何かが語られる際に、例えばとある出来事があってそれにより想起されたAという思索→Aという思索から想起されたBという思索→Bから想起された思索C→とある出来事の続きの出来事、といったように、思索から次の思索へとどんどん飛躍していき、それらの思考メモをかろうじて引き止めているのが時系列順に並べられた登場人物の行動である、といった構成をとっている。こうした点からも、『高尾症候群』は一気読みに適した文章だと感じる。基本的には、何度もその場に留まって精読するというよりはむしろ、ある程度理解したら先に進み、途中脚注で寄り道しつつ、とにかく最後まで読み通すという読み方が意識されている。あるいは、脚注が本編の後につけられていることで、本編を読み終わり、脚注だけを追い始める場合にも、その脚注が本編のどのあたりにて加えられていたものだったか、うっすら思い出しながら、本編の復習がてら読み進めることができるようになっている(もちろん、分からなくなれば、脚注の数字をタップすれば一瞬で該当本文にジャンプすることができる)。これらの読み方(読ませ方)は、Kindleという媒体があったからこそ成立しているものだ。Kindleであるからこそ、脚注を適宜表示/非表示させながら本文を読み進めることができ、さらに作中内のキーワードにて「検索」することも可能となっている。「本」という長大な文章を収めることに適したメディアの特性を活かすと同時に、思索メモの蓄積という面で非常に重要な検索性を損ねずに成立している本書は、媒体の特性を十二分に生かした構成を持つといえるだろう。その他、本書の中で筆者が言及している『高尾症候群』の特徴としては、()の不使用がある(その代わり、脚注は使いまくりである)。()を一度も使用しない文章は、ある程度以上の長さを持った現代の随筆や論考の文章においては稀有であるという理由から、木下古栗のいう文学からして「文章における突出した特徴」、つまり尖鋭的な創造性となりうる。ちなみに、脚注の多用は、本書でも多く引用されているV・S・ラマチャンドラン『脳の中の幽霊』『脳の中の天使』に影響を受けたと作中に記述がある。

良かった文・シーン
この空洞化への処方箋としては、その領域において、むしろ文学以外の他分野に対する興味やリテラシーを向上させることが重要になるだろう。とりわけ現代では、広い意味での科学的知見に触れる経路を持つことこそが一般教養であり、それを通じて、文学周辺で持て囃されるある種の「思想」や「批評」には取り立てて学究性がないこと、それらとは別に現在進行系の高度な知的探求がなされていることを知れば、おのずと文学に対する姿勢も変わらざるをえないはずだ。たとえ文学という分野に属していても、素人なりに最低限の科学リテラシーや情報リテラシーを身につければ、少なくとも精神分析などには幻惑されなくなり、また『「知」の欺瞞』のような真っ当な批判の重要性も理解できるようになるだろう。文学お得意の「人間」について考える際にも、主観的感慨や物語的体験のみならず、進化的視点や神経科学的知見などを参照できたりもするだろう。あるいは実証的、定量的な社会科学的視点、統計やデータに基づく視点から社会問題を考察する専門的言説に継続的に触れれば、問題を文芸的な「思想」に依拠して語ったり、曖昧な「資本主義」やら「新自由主義」やらを陰謀論的に批判したりするような言説の「詩性」にも気づくだろう。そのようにして「思想」や「批評」による粉飾を排したり、文学などを必要としていない物のみかたを認めたり、社会問題の分析を他分野の専門性に委ねられるようになったりすれば、目の前にはまさに文学しか残らず、したがって文学を文学として探求するほかになくなり、文章技術や創作手法を分析するという意味の真の意味での、文学リテラシーが向上していくだろう。もはや見せかけの知的風文化で格好付けたり、社会評論を通じて問題意識や道徳意識を顕示したりすることはできなくなるが、専門的志向とは本来、そうした「ファッショナブル」な価値とは正反対の方向性だろう。(p.559-p.560)

追記
https://note.com/freegoogleton/n/n9111386af94d
 2023年6月23日にフリー・グーグルトン先生のnoteが更新されていることに後から気づいた。楽しそうで何よりだが、「素人なりに身につけるべき最低限の科学リテラシーや情報リテラシー」を明らかに意識した投稿で、「こんなんさぁ、もうずるいよ……」と思った。