そこにいるのは誰?

2023-08-11Works,公募公募,小説,文藝賞短篇部門

「メインターゲットは二十代から三十代の女性、カップル、ファミリー、羽田匠ファン、M♡N(モノ)Φの藍川芽乃ファン、ラブコメ好き、原作ファン。サブターゲットは森川信介ファンの四十代から五十代、コアな映画ファン、流行に乗りたい新しいもの好き、サスペンス好き、年に一、二回映画館に行く層、公開日は夏休みなので学生……」
 コの字型デスクの隅っこで、わたしは宣伝資料に目を落としていた。対岸にクライアント。隣に座る及川さんは、身を乗り出して相槌を打っている。説明の途切れたタイミングで、「いやー、それにしても」と眼鏡を直し、きゅっと口角を上げた。
「羽田匠さんと藍川芽乃さんの共演、ブチ上がりますね! お二人ともいま若者に大人気! これはファンに刺したいなー!」
 クライアントが、待ってましたと言わんばかりに大げさに頷いた。
「弊社としても、やはりお二人の共演というポイントはガンガン宣伝していきたいです!」
 映画『愛して奪う』、通称『アイダツ』には原作小説がある。原作のタイトルは『青鷺の復讐』。冴えない営業サラリーマンが主人公の、硬派な社会派サスペンス小説だ。とある医療機器メーカーの不祥事により命を落とした主人公の妻。しかし企業側はそれを隠蔽する。主人公は復讐のため産業スパイとして企業に潜入し孤軍奮闘、大企業の陰謀を暴いていく……という筋書きだ。映画では、主人公をベテラン俳優・森川信介が務める。新進気鋭の若手俳優・羽田匠は、主人公の勤める企業の御曹司で、森川の上司。藍川芽乃は不祥事企業の受付。森川の頼れる味方となる。
 わたしは原作ファンだった。プロモーションに携われると知ったときには小躍りした。本当にベッドの上で跳ねた。スーパーの割引寿司も食べた。小さな企画制作会社なのに。しかもまだ入社一年目なのに。まさかこんな大チャンスが巡ってくるとは! この仕事を選んでよかった。……そういえば、どうしてわざわざタイトルを変えたんだ? 些細な違和感はすぐに喉元を過ぎ去っていった。
 関係者試写会で作品を観た。映画のクオリティ自体は並だった。よくある邦画の平均的な完成度。原作にはない寒いギャグが足されていたり、藍川演じる受付の言動が大幅に変更されていたりすることには、ギリギリで目を瞑った。でも一つだけ、絶対に許せないことがあった。原作の冒涜、わたしの地雷。
 映画では、羽田匠と藍川芽乃がくっつくのだ。原作で、二人が直接会うシーンは一切ない、、、、にもかかわらず! そして二人が恋愛関係になることによって修正されたシーンがことごとくつまらない。特に、羽田匠が「さあ美波(藍川芽乃の役名)、愛して奪おう……」と口づけするところなんて最低。これはお前の物語じゃねーよ。何勝手に盛り上がってるわけ? お前らがいちゃついてる間、乾(森川信介の役名)は監禁されてるんですが⁉ テンションは天から地の底へ。解散、解散! 一原作ファンとして、決して、この映画を認めるわけにはいかない!
 もっと許せなかったのは宣伝ポスターだ。背景はピンク色で、羽田匠と藍川芽乃の二人が、左右対称にでかでかと並べられている。主人公であるはずの森川信介は、下の方に小さく配置されているのみ。これでは二人のラブコメと勘違いされそうだ。森川信介の年季の入った硬派な演技と、妻を亡くした中年男性の哀愁がこの映画の一番の見どころなのに!
 最悪の煮こごりはまだまだある。映画のキャッチコピーだ。
「愛してる。仕事も恋も、俺のもの」。
 もういやだ。なんなんだこれ、クソ寒い!
 ……口が悪くなってしまった。そうやって噛み付いてみても、所詮わたしは新人の、星の数ほどある企画会社の、使われる側の、無力な人間だった。クライアントワークでは、顧客の意向が最優先である。「羽田匠と藍川芽乃を猛プッシュして、ドタバタラブコメ感を前面に打ち出す」という上の宣伝方針に対して、わたしに抗える力はない。
 
「良いのがあったら、任せるから」
 提案まで二週間、及川さんが柔和な笑みをこちらへ寄越した。
 せめてわたしは、わたしだけは、原作を大切にしつつ映画の魅力を的確に伝えてやる。それは、とてつもなく大きな使命に思えた。きっとこのままでは、ラブコメだと思って観に来たひとが「なんか思ってたのと違ったね」と言いながら帰っていくのだ。原作ファンは失望して口をつぐみ、映画になることで真に響くべき層にはラブコメだと思われて届かない。そんなのって何になるんだ。誰も得しないじゃないか。
 内容に忠実に、かつ原作ファンも楽しみになるような(実際に観たら、わたしみたいに失望するだろうけど)、それでいてつい拡散したくなるようなプロモーションを。
 残業は苦にならなかった。それより、明日に迫った及川さんへのプレゼンの方が大事だった。先輩に聞いたことがある。
「昔の及川はマジで怖かったんだぞ。ナイフが歩いてるみたいでさ、年上年下とかクライアントとか関係なく良いもののためにはなんでも斬るって感じで」
 よかったな、今の及川は丸くなった、とその先輩は付け足した。個人的には疑わしかった。今だって、いつもニコニコしているが、核心だけは鋭く突いてくる。昔なにがあったかは知らないが、変わってしまったそれからを、淡々と続けられるひとの方が恐ろしくないか。
 とはいえ自信はあった。作品の良いところを、良い方法で伝えるのだから。それ以外に大切なことってあるだろうか。その日は寝る前にフェイスパックをした。そして、少し良いシャツと、デパコスの口紅を机の上に並べた。
 翌日、及川さんと対面した。クライアントを前にしたときよりも緊張する。意を決し、企画案を発表した。『あなたは誰と復讐する? 推しと一緒にアイダツ診断』。いくつかの質問に答えると、ユーザーの性格から推す可能性の高い登場人物と、ユーザーが復讐するものを教えてくれる診断コンテンツだ。たとえば、「しっかり者のあなたは、冷静沈着に任務を進める相田(羽田匠の役名)とアイダツ! 相田と一緒に【社会】に復讐します!」、「意外と激情家なあなたは、内なる炎を秘めた乾(森川信介の役名)とアイダツ! 乾と一緒に【お布団】に復讐します!」とか。診断コンテンツの最後に、映画自体の説明や予告動画の導線があって、シェアでプレゼント企画も……。
「ストップ!」
 及川さんが手を叩いた。表情は柔らかいままだ。
「うん、新卒でここまで考えられるひとはなかなかいないよ。素晴らしいと思う。でもね、うーん、それじゃあちょっと、……狭いかなあ」
 性格診断を兼ね備えているのはグッドアイデア、でも知らない作品の登場人物をいきなり出されても、それだけじゃ診断しよう、シェアしようという気にまではならない。『アイダツ診断』って語感はいいと思うけど、「推す可能性の高い登場人物」をプッシュしたいなら「復讐するもの」まで診断するのはピントがぼやける、どちらかに絞ったほうがシンプルになるんじゃない?
「それに、ターゲットは誰だった?」
 わたしは口ごもる。
「えっと、実質全員だったというか……」
「そうかもしれないね、でもクライアントが望んでいるのはきっと『羽田匠ファン』や『藍川芽乃ファン』に盛り上がってもらうことじゃないかな?」
 う。
「で、でも、主演は森川信介ですよね、そこまで二人にフィーチャーして良いんでしょうか」
「んー、森川さんはベテランで、良い意味で安定してるからね。話題化のために、羽田匠と藍川芽乃をプッシュしたいクライアントの気持ちも尊重してあげてほしいな。クライアントが一番取り込みたいのは、二十代から三十代の女性、それも羽田匠ファンや藍川芽乃ファンの女性。それに、恋愛要素を期待して観に来るひとは多いってことも忘れちゃいけないよね」
 身体に巨大な赤い筆でバツをつけられた気分だった。恋愛要素だって? あんな取って付けたようなもののために? 我慢できなかった。
「……及川さん。その、個人的には、熱狂的な羽田匠ファンや藍川芽乃ファンは放っておいても観に行くんじゃないかと思うんです。既にファンは盛り上がってますよね?」
「それで、他の役者にも興味を持ってもらうために登場人物が複数登場する診断コンテンツをつくりたい、っていう理屈はわかるよ。でも、それじゃこの診断自体が広まるにはどうしたらいいだろう。いま盛り上がっている界隈があるのなら、それを利用させてもらうのは良い方法なんじゃないかな」
 納得していない様子が顔に出ていたらしい。及川さんは続けた。
「笠井さんは筋が良いから色々感じ取ってしまうんだと思うけど、これはあくまでクライアントワークなんだよね。打ち合わせのとき、クライアントが一番反応したのはそこだった。羽田匠と藍川芽乃による集客を強く期待している。世間はミーハーだよ」
 口の中が急速に乾いていく感覚が生々しかった。
「世間の姿が想像しづらいなら、ペルソナってわかる?」
「……はい、ターゲットの人物像を具体的に設定するやつですよね」
「うん、それやってみて。ベースはこれでいいと思うから、診断の中身を万人受けするように考え直してみて」
 
 ピンク色のポスターを見ながら虚脱していた。Twitterで『愛して奪う』と検索してみる。羽田匠ファンや藍川芽乃ファンと思しきアカウントの投稿が多く目についた。ファンは特定の絵文字をハンドルネームに入れているから簡単に区別がつく。映画公式アカウントの短い挨拶動画に並んだ夥しい数のリプライ。なんだかな。わたしは椅子にもたれて伸びをした。対して、『青鷺の復讐』の検索結果。映画化に対する批判ツイートがちらほらと目につく。主にポスターの批判。これが一番バズっている。それから、「どうしてタイトルを変えたのか」という不信感の表明。絶対に観に行かないと宣言しているアカウントまでいる。残念ながら、わたしの「世間」はこちらだった。わたしだって。わたしだってこのポスターだったら観に行かないかもしれない。いや、僅差で見届けたい気持ちが勝って、勝手に観に行って、勝手に傷つくのかも。
 あーあ、と思いながら、ノートを開いた。アドバイスされた通り、ペルソナをつくるところから始めるしかない。古い手法な気もするし、それで何が変わるのかは不明だが。
 少し考えて、適当に名前をつける。
浜岡愛里、二十代前半の女性。関東在住。ITコンサル勤め。趣味はカレー屋巡り。M♡N(モノ)Φのファンで藍川芽乃推し。映画は観るけど映画館にはあまり行かない。主にネトフリ。最近は、韓国ドラマを追っている。一番近い映画館は、最寄り駅の二駅先のイオンにある。継続プレイしているソシャゲはなし。オフィスカジュアルがよく似合う。長髪ウェーブ。小さいバッグとか持ってる。恋人か友達なら友達を優先する
 ここまで書いて、ワハハと思う。ついつい書きすぎてしまった。架空の女性が紙上に暮らしている。一体これは誰なんだ。
 問一、この女性が『アイダツ』を観たくなるようなプロモーションを考えなさい。
「……わかんないよ、そんなの」
 ごみだらけの部屋へいい加減に放り投げられた声が、いつまでも隅っこの方でくすぶり続けていた。
 
 次の日も、企画は進まなかった。コーヒーを三杯も飲んでいる。ノートをぼーっと眺めたり、Twitterで映画にまつわる呟きを見たりしていたら、午前が終わった。及川さんに言われたことを考えていた。万人受けするものを考えるのに、どうして具体的な人物像を想像するようにアドバイスしたのだろうか。わたしの感覚が世間ずれしている自覚はあった。漠然と、世間に対して「よくわからないもの」というイメージを抱いている。まずはそれを分解せよ、ということなのだろうか。分解して分解して、その先に誰かいる? その誰かは世間の人間の特徴を全て足し合わせて人数で割った平均の人間? 馬鹿げた妄想だが、その誰かを仮定することでしか始められないこともある……のだろうか。わからなくなってきた。
 埒が明かないので、昼休憩を取った。オフィス街を歩いていると、そびえ立つ高層ビルすべてに、働く人間がひしめき合っていた。突然、足場が消滅したように錯覚する。外の風景を反射した無機質なガラス。なめらかな表面の向こう側、顔の見えない誰かのために働く人間が、規則正しく並んでいる。顔の見えない誰かの笑顔を想像しながら、あるいはその余地を奪われながら、彼らは働いている。そして、彼らは顔の見えない誰かそのものでもある。する、とされる、がぐるぐると循環する。平衡感覚を失った。整然と並べられた街路樹は誰のために植えられたのか。このビル群は誰のために建てられたのか。嘘の緑、嘘の光、嘘の街。
 わたしも、誰かのために想定された誰かだとしたら。
 でも、ここに存在するのは生身の人間ばかり。
 木陰に避難した。葉が擦れて刻々と変化する影を見る。この木はいま、確かにわたしを太陽から遮るためにあるのだ、と思った。ビルを覆うマジックミラーにわたしの姿が映る。くたびれていた。何の変哲もない人間だった。
 端の方にうずくまると、落とし物を見つけた。
 社員証だ。こんな大事なものを落とすなんて。拾い上げて裏返す。「あ、」と声が出た。社員証に書かれていた文字。
「日本SYTANK 情報ソリューション部 浜岡愛里」
 なぜか強烈に見覚えがある。浜岡愛里? いやありえない。
 え、ITコンサル勤めの浜岡愛里……? 本人?
 あれはわたしが勝手に考えた架空の人物だ。
 これは偶然だ、と言い聞かせる。おかしなこともあるものだ。
 ……そんなことより、社員証を届けなければ。スマホで日本SYTANKのオフィスを検索していると、「すみません」と声を掛けられる。
 長髪ウェーブでオフィスカジュアルのよく似合う女性が立っていた。
「それ、拾ってくださったんですか? 私のなんです、落としちゃったみたいで」
 呆然としたが、しばらく考えて「あ、ああ」とどもりながら社員証を手渡した。
「よかったー! 会社に届けられると始末書とか色々書かされるんですよ! オフィスには入れなくなるし! 真剣にピンチだったんです! 本当に助かりました!」
 手を握られるのではないかと思うほどの勢いだ。すべての語尾が飛び跳ねている。先ほど見かけた、芝生の上を転げ回る小型犬のバズ動画を思い出した。いや、そんなことではなくて。これは夢か? 目の前に浜岡愛里が立っている。いや、
「いやいやいやいや」
 つい声が漏れてしまう。浜岡愛里はわたしの返答を謙遜だと受け取ったようで、にっこりと微笑みかけた。
「せっかくなので、ご飯がまだでしたらご一緒にどうですか? お礼もしたいですし」
 年齢は……やっぱり、二十代前半に見える。わたしと同じくらい。普段わたしの生きる世界にはいないひと。抗いがたい欲求が身をもたげてくる。このひとのことをもっと知りたい。
「それならお言葉に甘えて」と頷くと、やった! と浜岡さんは小さくガッツポーズした。かわいらしかった。
「今ってカレーの気分だったりしませんか? もしよかったらなんですけど、この辺りに行きつけのカレー屋さんがあって」
 
 色付きのレースカーテン越しに柔らかな光が差し込む。入店した瞬間、時間の流れが突然ゆるやかになった。こじんまりとした店内いっぱいに、スパイスの香りが漂っている。浜岡さんがわたしを奥の席に案内した。無愛想な店主がお冷を運んできて、そのまま注文も聞かずに去っていく。「ここメニュー一つしかないので」と浜岡さんが耳打ちする。
「チキンカレーなんですけど、味付けは塩だけで、水も使わず鶏肉とスパイスをひたすら煮込み続けるんです。それがびっくりするほど美味しくて! 誰かにおすすめするならここって決めてるんです」
 浜岡さんが、先に運ばれてきたサラダを口に運んだ。ヨーグルト? がかかっている。
「良いお店ですね、カレー屋さん巡り、趣味なんですか?」
 浜岡さんは、笑顔でうなずいた。ビンゴ。あまりにも偶然の一致がすぎないか。
 わたしは半ば意地になっていたかもしれない。わたしの考えた「浜岡愛里」と、目の前にいる浜岡さんの共通点、または相違点を見つけようと躍起になっている。彼女の指先に目が留まった。鳥肌が立つ。
「あの、それ」
 そのネイル。紫にサーモンピンクのライン。浜岡さんが「ん?」と右手をひらひらさせた。
「浜岡さんって、もしかして……M♡NΦ好きですか?」
「え! よく分かりましたね! そ、推しネイルです!」
 あなたも好きなのかと聞かれ、わたしは嘘を吐いた。
「わー! 嬉しいな! 職場にM♡NΦ好きいなくて! そういえばお名前聞いてなかった!」
「笠井です」
「笠井さんは誰推し?」
「んー、基本箱だけど強いていうなら咲弥かなあ」
 ライムグリーンの。
 浜岡さんは手を叩いて喜んだ。咲弥、いいですよね! 姉御肌っていうのかな? 最後にはピシッとみんなをまとめる感じ! チキンカレーが運ばれてきた。とろとろになったチキンから、旨味の凝縮された黄金のオイルが垂れてライスに滴っている。浜岡さんがぱくりと一口目を食べたのを見て、わたしも口へ運んだ。美味しい。今まで知っていたカレーとは全然違う。
「そういえば私、二十二なんですけど笠井さん同い年くらいだったりして……?」
 きた、二十代前半!
「え、わたしも二十二です! てことは新卒ですか?」
「そーそー! やっぱり同い年だった! 新卒だよ〜まだまだ研修ばっかり」
 いつのまにか、浜岡さんはタメ口になっていた。
「実は社員証落としたの今日が初めてじゃなくて、マジでどうしようかと思った! 二ヶ月に二回はさすがにやばそうじゃん、本当に助かったんだ〜」
 アイスチャイの氷がカランと音を立てた。ガムシロップを入れてストローでかき混ぜる。
「研修手厚いのうらやましいかも。うちは小さい会社だからOJTとか言って、いきなりプロジェクト入れられてさー。楽しいけどめっちゃプレッシャーかも」
 楽しい、のは嘘じゃない。
「え、笠井さん、やっぱ下の名前も聞いていい? ……じゃあ、ふみちゃんね、ふみちゃんの会社ってどういう業界?」
「広告かなー、今は映画のプロモーションとか」
「え、すご! 私映画好きだよ! いまはネトフリばっかだけど」
 なんだか。なんだか、会話がとても弾む。初めて会った気がしない。昨日のあれを「初対面」と言っていいのかわからないけど。浜岡さんが、こちらをじっと見つめていた。
「なんかさ、」
 それから浜岡さんは、ゆっくりと両手に顎を乗せた。
「全然初めて会った気がしないわ」
 完全に頭を撃ち抜かれた気がした。
 真剣に、仲良くなりたいと。あなたが誰かはわからないけど。いや、浜岡愛里さんだ。それは間違いない。あなたはわたしが作った?
「実は、」
 よく手入れされた茶髪が肩にかかってふわりと揺れた。浜岡さんが目をくりくりとさせ、小首を傾げている。トップスに縫い付けられた控えめなビジューが、店内のライトを反射してきらりと光った。
「ちょうど、浜岡さんみたいな人をターゲットにした映画のプロモーションを担当していて……いや、タイトルは言えないんだけど。それで、その映画が二ヶ月後に公開なのね? もし、二ヶ月後に何か映画を観たら教えてほしくて」
 わたしは、カレー屋のナプキンに電話番号を書いた。わたしの仕事が、誰かを動かしたと信じてみたかった。
「クイズみたいだ。そんなこと言われたら二ヶ月後、絶対に映画観ちゃうけどいいの?」
 浜岡さんはナプキンを見て、ふふと笑った。「おもろ、LINEでいいじゃん」
 結局、浜岡さんとLINEを交換して別れた。交換直後に、確認でお互いスタンプを送り合って、それきり連絡は途絶えている。
 
 ペルソナと会話した。わかってる。目の前にいたのは本物の人間。それはわかってる、けれど。わたしはオフィスへ戻って、「浜岡愛里」のプロフィールを見た。ノートに雑に走り書きされた人間の断片。
 一致していたのは、名前、年齢、性別、居住地、推し、趣味、髪型、ファッション……。深呼吸をした。穴が開くほどノートを見つめて、また深呼吸をした。
 あなたに出会えたことで、わたしはこの仕事にちゃんと向き合える気がする。
 正直、どこにそんな人間がいるんだって思ってた。やみくもに竿を投げていた。でも、それじゃダメだったんだ。
 それじゃあ、ターゲットを広く浅く捉えて、大きな網でザバッと大勢を掬う方法を探るのか。だって、現実的に考えて、公開初週の動員数って、とても大事だもの。
 いや、それも十分ではない。
 大きな網でザバッと大勢を掬う、そんなプロモーション。そして、誰か深く一人に銛を突き刺すような、そんなプロモーション。それらが両立できるのだとしたら?
 雲を掴むような話じゃない。わたしは浜岡愛里に会えたのだから。藍川芽乃ファンの浜岡愛里。顔の知らない誰か、実在するのかどうかすらわからないような誰かじゃない。浜岡愛里を掬う網を探せ。浜岡愛里に刺さるプロモーションをしろ。一人の浜岡愛里の背後には一億人の浜岡愛里がいると思え。以前提出した案が、「狭い」と言われた理由が、いまはよくわかった。誰かを刺すにも、網を張るにも、そこには誰かがいなければならない。魚影のない場所で釣りをしても意味がない。広く、深く。確かにそこにはひとがいる。私のプロモーションは、そういう人たちのためにあるんだ。わたしのプロモーションで、映画を観ようと思える人が現れるかもしれない!
 そこからはあっという間だった。まずタイトルは、『あなたは誰とアイダツする? アイダツチャレンジ診断』。最初にユーザーは、羽田匠とアイダツするか、藍川芽乃とアイダツするかを選択することができる。どちらかを相棒に選んで、いざ診断スタート。診断中は、二人のどちらかがアドバイスを吹き出しで話しかけてくる。そう、ユーザーは主人公なのだ。選択肢を選んでいき、最後には、ユーザーのアイダツが何%成功したか診断結果が表示される。例えば、「しっかり者のあなたは、冷静沈着に任務を進める相田(羽田匠の役名)との相性百%でした! 相田と一緒にアイダツ成功! 親密度もMAX!」、「意外と激情家なあなたは、抜け目のない草野(藍川芽乃の役名)との相性六十%でした! 草野とのアイダツはまずまずの結果! 次はきっとうまくいく!」などなど。
 浜岡愛里の情報を見たり、二人で食事したときのことを思い出したりしていると、自分でも驚くほど、するすると診断文言が湧いて出てきた。デザインのイメージも鮮やかに浮かぶ。誰かがわたしの手を引いて先導してくれているかのようだった。
 
「……驚いた。これはぜひクライアントにプレゼンしてみよう。随分良くなったよ!」
 及川さんが薄い目をぱっちりと開いて言った。
 トントン拍子とはこのこと。
 わたしのプレゼンは、クライアントからも絶賛され、さっそくこれで行ってみましょうと受注が決定した。公開日まで二ヶ月しかなく、タイトなスケジュールだった。企画のブラッシュアップや、制作サイドへの指示に追われ、帰宅するのは毎日終電前。へとへとだった。でも、楽しかった。誰かがこのプロモーションを待っている、そう心から思えた。
 
 プロモーションが、無事に公開された。その日が来てみると意外と静かで、でも一日中そわそわとして全く落ち着かなかった。Twitterで『#アイダツ診断』と検索する。シェアされた投稿が目につく。中には、『相田(羽田匠の役名)との相性百%でした!』を表示させるために何度も診断をプレイしている羽田ファンの姿もあった。藍川ファン、ひいてはM♡NΦファンにも受け入れられていて、なんとM♡NΦのメンバー同士が『草野(藍川芽乃の役名)との相性』を診断しあってくれるという、ファン大歓喜の展開もあった。クライアントに聞いてみたが、どうやら事務所からの指示ではなくM♡NΦが自発的にやってくれたらしい。
「大成功ですよ! 笠井さんのおかげです!」
 さっそく次の映画のプロモーションもぜひ、と新たな案件の引き合いがあった。社内は、期待の新人として、わたしの話題でもちきりだった。
 
 公開日が休日だったので、最寄りの映画館に『アイダツ』を観に行った。若い女性が多く席を埋めていた。次にカップル、それからファミリー層も。ほとんど満席だった。ここにいる全員が、何らかの方法で『アイダツ』を知り、何らかの理由で『アイダツ』を観るため足を運んだのだと思うと感慨深かった。そわそわとした空気と、甘いポップコーンの香り。うすぼんやりとした場内で、観客たちの顔は見えない。座席に沈んで、そのときを待った。
 場内が真っ暗になって、そして明るくなった。映画の出来は、二回観ても「並」だと思った。席を立とうとしたとき、隣に座っていた女性二人組の会話が漏れ聞こえてきた。
「よくわかんなかったねー」
「話むずかったね、でも芽乃ち可愛かったわ」
 はっとして周囲を見渡した。人々はそそくさと退場していく。人混みにぐるぐると目を回しながらもわたしは何かを探すように視線を巡らす。
 思い出した。
 浜岡愛里は?
 もしかして今ここにいるなんてことは……。
 老若男女、ひと、ひと、ひと、ひと。
 浜岡愛里の姿は、どこにも見えなかった。
 
 数日後、大手のWebメディアの「【タイトル詐欺⁉】『アイダツ』はラブコメか? 原作ファン困惑」という記事がバズった。羽田匠ファンや藍川芽乃ファンの大多数はその記事に反応しなかったが、インターネットユーザーは嬉々としてこの話題をこねくり回した。ネットユーザーの声。「こういう不誠実な宣伝を映画業界はいつまで続ける気なんだろう」、「ポスターのデザイン酷すぎない?」、「映画観たら森川さん演じる激シブおじさんが大活躍する話なのにイケオジ好きには届いてなさそうでもったいない」、「恋愛要素を入れないと客が入らないと思われてるんなら、相当馬鹿にされてるよね私ら」。わたしの担当した診断コンテンツのアクセス数はすでに下火になっていた。あれは、映画公開前に話題化をブーストさせるためのものだから、それで正しいのだけれど。それでも、「こういうプロモもさー、羽田と藍川を推しすぎてるよね」という匿名の声には傷ついた。本来は、そこにわたしがいたのだった。わたしはわたしに批判されそうなものを、まさにこの手でつくりだしてしまったのだ。
 結局、目指した先に誰かがいることのほうが少なくて、でも誰かがそこにいると信じることでしか、わたしの身体が動くことはなかったのだなと思う。でも、そこには確かに誰かがいた。いないひとはわたしの身体をどんどんすり抜けていった。身体に鈍い衝突を受けたことに気がついてから、やっとわたしは、そこにひとがいたことに気がついたのだ。
 
 ごみだらけの一人の部屋で、電話が鳴った。画面には「浜岡愛里」と表示されていた。
 浜岡愛里!
 一気に心拍数が上昇した。顔の周りに血液が上り詰めてくるのを感じる。わたしはあなたに合わせる顔がない。勘違いして得意げになって。
 それでも、無視することはできなかった。
「……はい、」
 恐る恐る通話に出る。
 わたしの気持ちなんて全く知るよしもない。浜岡愛里の声は、これまでにないほど弾んでいた。
「あ、ふみちゃん!」
 高くて明るい声が鼓膜を揺さぶった。一度会ったきりとは思えないほど自然な呼びかけだった。「ふみちゃん」。わたしは、緊張を悟られまいと「わ、久しぶり! どうしたの?」と返事した。用件なんて一つだけだ。わかってるのに。
「観たよ、映画!」
 来た。
 無意識に口が開いていた。わたしの周囲だけ、酸素が薄くなった。
「観た瞬間、いや絶対これだー! って分かったの! これは私のための映画だって! ほんとありがと! わたし、二ヶ月後に映画観てって言われなかったら、絶対観てなかったと思う!」
 顔を上げた、そんなまさか。手が震えているのがわかった。
わたしは、彼女の次の一声をじっと待った。彼女だけでよかった。
 もう、あなたに刺さればそれだけで。
「ほんっと面白かった! 『爆☆裂無双拳モルギャンガー』! 最っっっ高!」
 
 ……は?
 
 『爆☆裂無双拳モルギャンガー』????
 
 浜岡愛里は電話の向こうで、モルギャンガーがいかに傑作だったかを、わたしに熱く語りきかせている。モルギャンガーがヘヌの策略で監禁されたとき、いかに機転を利かせて脱出したかとか、最終局面でモルギャンガーが師匠の真の意図に気づいて、必殺技、爆☆裂無双拳アルティメットサイクロンを大進化させる流れが最高にアツいとか。興奮はすぐには冷めやらぬ様子。どうやら映画館から出てそのまますぐわたしに掛けてくれたらしい。
「はは、あはははは!」
 わたしは思わず声を上げて笑っていた。
 愛里ちゃんの、早口でまくしたてる様子が、カレー屋で会ったときのテンションからさらにギアが上がってて、ああ、モルギャンガー、本当に面白かったんだなと素直に伝わってきて、よかったなって、なんだかこちらも嬉しくなって。
 わたしは、開きっぱなしで放置されていたノートを見つけて、ゴミ箱に放り投げた。
浜岡愛里、二十代前半の女性。関東在住。ITコンサル勤め。趣味はカレー屋巡り。M♡N(モノ)Φのファンで藍川芽乃推し。推しだからって全コンテンツをチェックするとは限らない。映画は観るけど映画館にはあまり行かない。主にネトフリ。最近は、韓国ドラマを追っている、かどうかは今度聞いてみよう。一番近い映画館は、最寄り駅の二駅先のイオンに、本当にあったら面白いな。継続プレイしているソシャゲはなさそうだけど、これも聞いてみないと。オフィスカジュアルがよく似合う。これは本当。長髪ウェーブ。これも本当。小さいバッグとか持ってるかは、遊んでみなきゃわからない。恋人か友達なら友達を優先する……かどうかは、どうでもいいか。そして、『爆☆裂無双拳モルギャンガー』が、大大大好き
 
 なんだか、やっと愛里ちゃんと友達になれるような気がした。