【ネタバレあり】映画『君たちはどう生きるか』感想

2023-07-15Diary映画感想

『君たちはどう生きるか』(2023)・124分

観た日付:2023/7/15

どこで観た:映画館

あらすじ(コピペ)
宮崎駿監督が「風立ちぬ」以来10年ぶりに手がける長編アニメーション作品。
「千と千尋の神隠し」で当時の国内最高興行収入記録を樹立し、ベルリン国際映画祭でアニメーション作品で初となる金熊賞、ならびに米アカデミー賞では長編アニメーション賞を受賞。同作のほかにも「風の谷のナウシカ」「もののけ姫」「ハウルの動く城」などスタジオジブリで数々の名作を世に送り出し、名実ともに日本を代表する映画監督の宮崎駿。2013年公開の「風立ちぬ」を最後に長編作品から退くことを表明した同監督が、引退を撤回して挑んだ長編作品。
宮崎監督が原作・脚本も務めたオリジナルストーリーとなり、タイトルは、宮崎監督が少年時代に読み、感動したという吉野源三郎の著書「君たちはどう生きるか」から借りたものとなっている。

観たきっかけ
ポスターに鳥がいたから。

コメント
・観終わったあと真っ先に浮かんだ感想が「どうしよう」だった。情けないことに、私には何もわからなかったのだ。わからなかったというのはつまらなかったと同義ではなく、もちろん十分に楽しんだし素晴らしい作品だった。私にわからなかったのは、示し合わせたわけでもなく当然のように公開日当日の早い時間にこの映画を観て、Twitterのスペースで数時間以上の感想戦を繰り広げていた人たちの熱量がどこから来ているのか、だ。まず前提として、私はジブリ作品をほとんど観たことがない(千と千尋の神隠し、魔女の宅急便、となりのトトロ、天空の城ラピュタのみ)。それに、宮崎駿という人物やその周辺人物への興味がない。盛り上がっていた人たちは、今回の映画から宮崎駿の人生の集大成ともいえるような何かを見て取って、それを彼自身や彼の人間関係や人生の出来事と絡めながら考察し、楽しんでいたのかもしれない(もちろんネタバレ回避のため実際にスペースは聴いておらず、スペースに参加していた人々のツイートからの類推になる。それだけを話題にしていたわけではないとは思うが……)。こう言ってしまうととても嫌な感じがするけれど、私は地方出身者で都会に比べると文化資本の薄いなかで育ってきて、大学生になって初めて関西に行き、そこで周囲の人々の文化的豊かさに衝撃を受けた人間である。それで、そんな世界があるとも知らなかった私はなんとかそうした場所に収まっていたくて、本をたくさん読もうとしたりアニメや映画を観たり美術館に足を運んだりしたけれど、結局、複数人でわいわいと集まって各々の理論や批評をぶつけあうといったことは全くといっていいほどできるようにならないままだった。なぜなのか。私の無知は大いにある。そう思っていたから頑張って知識をつけようとしてきたし、積極的に様々な作品を鑑賞してきたはずだ(まだ全然足りないけれど)。それは大前提として、薄々気づいていたのは「作者の人間性だとか人生模様だとかにクソほどの興味もないわ」ということだった。今回この映画を観たことが、その確信の決定打となった気がする。私は結局、あのサークルには入れない。私にはそうした楽しみ方はできないのだとはっきりとわかってしまった。それは私にとってはとても寂しいことだ。そうした人々の背中を追ってここまで来たのだから。でも、もう別々のものを見ている。初めからそうだったのかもしれないということがわかって、さて、私はこれからどう生きようね、と苦々しく思ったのだった。
・どうしよう。あの人もこの人もこの作品を絶賛しているけど、そんなにこの映画に語るべきことがあったようには思えない。どうしよう。確かに良かった点は多く見つけられるけど、みんなと同じほど私は感動できているのだろうか。そもそも感動しなければいけないわけではないのに、なぜ他の人と少しでも違った感想を抱くのがこんなにも怖いのか。分からなさだけが脳内をずっとぐるぐる渦巻いていて、このままだと二回目も観に行ってしまいそうだ。
・下記の記事を読んで、宮崎駿が「おそらく、訳が分からなかったことでしょう。私自身、訳が分からないところがありました」と試写で語ったことを知り、正直ほっとした。私は作品から過剰に作者の人生を読み取りたくないし、過度な考察もしたくはないし、わからないものはわからないままにしておきたい。わかろうとすることはもちろん大切だが。
https://book.asahi.com/article/14953353
・私は無類の鳥好きである。だからこの映画の鳥の描写には大満足だった。アオサギの水辺に降り立ったときの脚や首の動き、大きな獲物を丸呑みするときの喉の動き、脚のアップ、足音のリアルさ、どれをとっても最高だった。これを観るためだけにもう一度観に行って良いレベルだ。もちろんアオサギだけでなくペリカンもインコもよかった(インコだけリアリティを他の鳥より落としていた気がするんだがあれはなにか理由があるのだろうか)。鳥が不気味に描かれている点に非常に好感が持てた。特に、糞がリアルに描写されているのが素晴らしかった。鳥を鳥のまま描いてくれる作品は稀有だ。
・アオサギは結局名前すら明かされないが、私はあのキャラクターがとても好きだった。あまり多くを語る気はないが、とても愛着の持てるキャラクターだった。
・世界観については全く分からなかった。脚本もなんか変だ。しかしこの作品に私はエンタメ性を求めていたわけではなかったので別にそこは問題ない。ただし、小道具やモチーフなんかはもうちょいわかりやすくしてくれや……整合性とかもっとさあ……という気持ちはちょっとある。
・宮崎駿がわりと裕福な家庭の出だったことや、父親が航空機の工場を営んでいたことは先程リンクを貼った記事で初めて知った。まあ、このくらいの知識は鑑賞するにあたって必要だったのかもしれない。大叔父を宮崎駿、眞人をその息子と読む考察をしている人を見かけて、ほへーと思った。こういう鑑賞は私は好まないというだけだが、まああながち間違ってもいないのかもしれない。
・託される積み木、崩壊する世界、持って帰ってきた積み木、については、私は「作品を鑑賞することそのもの」を描いていると思った。世界のことを記憶し体感していられるのはその作品を鑑賞している最中だけであって、その世界から出ていくとき、私たちがそこから持ち帰ることのできるものは世界全体に比してあまりにも小さい。それこそ、積み木一個でも持って帰れたら御の字だろうと思う。私にはそういうふうに捉えられたが、他の人の感想ではもっとダイレクトに「宮崎駿が後世に託している」と見ているものもあった。一度眞人が断っていることが重要だとは思うのだが、その際の「悪意」の取り扱い方についてはまだ自分の中で納得の行く考察ができていない。「悪意」はあの世界ではどうも鳥たちに託されているような気がしてならないのだが、まだ上手く繋がらない。本当に悪意を持っている(といっても純粋な悪ではない)のはアオサギだが、その他のペリカンやインコは「その世界でそうせざるを得なくて結果そうなっている」だけであって(ペリカンには自覚があり、インコにはなさそう)、「アオサギにペリカンは勝てない」(ペリカンに押しつぶされたとき眞人がアオサギの羽を持っていたことで無事だった、と説明される)というのはそういうことなのだろうか……と考えている最中だ。
・過去のジブリ作品要素については、分かりやすいものしか発見できなかった。また、「何が入っているのか分からない謎シチュー」という再現できない漠然とした飯が出てきたのはちょっとめずらしいんじゃないかという気がした。メインの「ジブリ飯」はバターとジャムまみれのパンということになるのだろうが。
・ぽわぽわみたいなやつ(名前すら忘れてしまった)、あれで本当に良いの? と思った。この世界から、眞人たちの世界へ旅立っていく命、本当にその設定でよかったのか? そもそも舞台となっていた世界がどういう世界かわからない(最初の墓なんだったんだ、大叔父のつくったはずの世界で命が生まれているってこと? 火を噴く力なんなんだ、なぜ妊婦のいる部屋にはいるのが禁忌とされているのか? などなど)のでなんとも言えないのだが、うーん、なんかあそこだけ設定が浮いている気がしたんだよな……。
・タッチが印象派っぽかった。特に印象的で美しいと思ったのは、時の回廊(で合ってる?)をくぐり抜けて大叔父のいる場所に向かう三つのシーン。
・煙草おばあちゃんの生きてきたタイムラインがわからない。大叔父の世界で「私は最初からここで生きてきた」発言、最後の眞人のポケットから元の姿に戻って出てくるシーン、じゃあ冒頭からいたおばあちゃんはなんだったんだ? 眞人のいる世界で育つ→眞人と共に大叔父の世界へ→記憶をなくして「大叔父の世界で生きてきたことになっている」→眞人とともに帰還、ということだろうか。なんかちょいちょい、こういう整合性とれない要素があってもやもやする。もやもやするが、それを解明することが主眼ではないことはわかっていて、でもうーんそう割り切るのもなかなか難しい。これわかった。「大叔父の世界に生きていた→ひみとともにひみの時間軸へ帰還→眞人の世界でおばあちゃんになるまで過ごす→再び眞人とともに元の世界へ(お守りになっている)→眞人とはおまもりとして一緒に帰還→眞人のポケットから戻ってくる、ということか。
・音楽やっぱり良かったですね……。
・眞人の性格かなりぶっ飛んでてよかった。容赦なく弓矢を作り始めるのいいね。あと、自分で自分を傷つけるシーン、思い切りがあってよかった。大叔父の世界にある浮遊する巨石、あの形が完全に眞人の傷口と同じ形だと思ったんだけど、じゃあ煙草おばあちゃんにも同じ傷跡がついているのはどういう意味なんだ、という点がよくわからない。
・なんだか、「こういうことなんじゃないか?」「いや、でもそう考えるとここの意味がわからなくなる……」ということが多すぎて、もはやそういう見方をしていい作品じゃないんだろうなと思う。私は普段、かなり脚本を重視する見方をしてしまうので、そういうのにうるさくなってしまうんだが、にもかかわらずこの作品には不思議と何度も観たくなる魅力がある。やっぱりアニメーションと絵が抜群にうめぇってことなのか、すげーなぁ。
・なんだか、宮崎駿レベルになれば莫大なリソースを利用してこんな作品を作っても許されるんだ、というのはけっこう大きい希望だと思う。私は少なくともそういった面で非常に勇気を与えられた。総じて満足感のある体験だった。

追記
・なんでアオサギとペリカンとセキセイインコだったのかずっと考えている、まだ答えは出ていない
鳥だった理由としては、やはり「人間に身近ながら圧倒的な他者であるから」というぬまがさワタリさんの考察が私もしっくりくる
今のところ、アオサギはその中でも特に他者性を象徴しているキャラクター(これはぬまがささんも指摘している通り)なのかなと思うが
アオサギはエジプトではベンヌであるし、欧州でも精悍さの象徴として描かれる
日本では一方で不気味な鳥であったり妖怪にさえされていたこともある
ペリカンが一番わからなくて、今のところは「新しいけど古い鳥」だからなのかなと考えている
あとはコウノトリと似ている姿かたちけどこっちは「命を食らう」と設定したかったとか
ペリカンとセキセイインコは、大叔父さまに「持ち込まれた」鳥であって、つまり大叔父さまの生きた時代には「ペリカンとセキセイインコ」は新しい鳥だったんじゃないか、と考えているのだが……
ペリカンは一応1400年代に迷鳥として記録があるし、江戸時代にも知られていた(普及したのはまたしばらく経ってからだろうと思うのだが、データをまだ見つけられていない)
セキセイインコは一方で、明治時代と比較的新しい
ペリカンは新しいけど古い鳥で、セキセイインコは新しいけどそれゆえに無邪気に大繁殖して……と新しいものが古くなるにつれ収集つかなくなった感じとか