濡れ雀

2023-08-11Works,公募コバルト短編小説新人賞,公募,小説

 飛沫があがり、子どもたちがこちらへ向かってくる。ストン、ストンと次々にプールへ飛び降りて、ゴーグルをかける。私が合図に手をパンと鳴らすと、子どもが壁を蹴ってスタートする。バシャバシャと威勢がいい。バタ足で十五メートル。それを三本。この年齢の子どもたちには激しい運動なのだろうか、それともまだまだへっちゃらで、もっともっと泳ぎたいと思っているのだろうか。
 子どもたちが横を通り過ぎていくときに、フォームを軽く修正してあげる。軽く手を添えてバタ足の正しい感覚を伝える。足の裏で水を掻く。これが慣れるまでは難しい。子どもたちにもペースがあるので、泳ぎの途中で手を加えてしまうとそれで慌ててしまう子もいる。だから慎重に、丁寧に。
 胸まで浸かったプールの水はちょうどよい温度で、手足がさらさらと思いのまま動く。水が私の四肢の動きを伝えて、思い思いに形を変えていくのが心地よい。二十五メートルプールの八メートル付近にいる。やってくる子どもたちも、やってきた子どもたちも、両方をちょうどよく見張ることのできるポジションだ。通り過ぎていった子どもが無事に十五メートル先まで到達したことを見届けると、すぐ次の子どもがやってくる。この子はフォームが綺麗だ。手直しの必要を感じない。何もせずに「うまい! その調子!」と声をかけると、聞こえているのかいないのか、その子はバサバサと静かな飛沫を上げ、私の前を左から右へ通り過ぎていった。次にやってきた子も、上手い。フォームがさまになっている。これは次の昇級試験で中級コースに上がるかもしれないな、と思う。
 隣のコースでは千早さんが手を叩いて合図している。千早さんが受け持っているのは上級クラスの子たちで、子どもたちは次々に壁を蹴り上げては両腕をぐるんぐるんとダイナミックに動かして水中を前進していく。バタフライだ。ちなみに私はまだできない、バタフライ。
 パン、パン、と千早さんの叩くリズムで子どもたちが華麗に水の中を舞っていく。水族館のペンギンショーを見ているようだ。全員泳ぎ終わって陸に上がったところで、私と同じようにプールの中腹あたりに陣取っていた千早さんが、子どもたちの待つプールの縁までひと泳ぎした。パシャ……と静かな音が騒がしい屋内に反射した。
 はじめから水の中にいた人だ、と見惚れる。彼女は、水の中で生まれた人だ。黒を基調として白いラインが控えめに入った水着で、するりと水中を潜り抜けていくので、私は大海原をシャチが悠々と泳いでいく光景を想像した。
 それを引き裂くように、バチャチャチャ! と一層激しい水の音がした。ああ、あの子か、と思う。かずきくんが盛大に飛沫を飛ばしながらこちらへやってくる。フォームはぐちゃぐちゃで、もはや溺れているといったほうが正しい。どうしたらそんなことになるのかわからない。噴水がのっしのっしと大移動しているようで、水の中が窮屈そうで、かずきくんもいつも苦しそうだった。でも彼は決して諦めない。必ず端までたどり着く。休まない。毎回必ずやってくる。それだけで満点だと思う。彼の場合は、水中でフォームの修正をしても余計混乱させてしまうので、壁に手をついた状態でしか指導をしないようにしていた。これでも少しずつ前進している気がする。私はザバアと水中から顔を出したかずきくんにグーサインをした。
「前よりフォームよくなったよ!」
と声をかける。
 私のクラスは初級。まだ幼い子どもたち、それからバタ足はかろうじて、でもクロールの息継ぎはまだできないかな……程度の子どもたちが集められている。これは、私のためでもある。こうしてスイミングスクールの講師をしている私だったが、実はクロールしかまともに泳げないのだ。
 採用面接のとき、私はこのジムの受付係を志望していたはずだった。ちょうど塾講師のバイトをやめたばかりで、学生でも可能な時間帯のバイトを探していたのだ。そのとき、面接官がこんな質問を投げかけてきた。
「スイミングの先生が足りてなくてねー、小雪さんさ、クロールとかできたりする?」
 落とされたくないがために、クロールならできます、と答えた。嘘は言っていない。本当は、クロール以外できないのだが。しかし、それだけで面接官は大きく頷いた。あのとき、「いや、泳げません!」と答えておくべきだったのだ。
「そう、よかった! それならね……」
 話がどんどんおかしな方向へ行って、気がつくと私は採用されていた。しかもなぜか、受付のバイトとスイミングの先生を両方やることになっていた。次の日からさっそく研修が始まり、担当者に「私、クロールしかできないんですけど」と質問したら、
「最初はそれで大丈夫だから! あとから覚えてくれればいいから!」
と言われる。どっちにしろ泳げるようにはならなあかんのかい、と思いながら、とりあえず目の前の分厚い教本の読み合わせに集中することにした。
 こうして勤務し始めて一ヶ月で持たされたのが今のクラスだ。この曜日のこの時間帯は千早さんのクラスと隣同士になる。千早さんは、私のコーチでもあった。
 閉館三十分前になると、もうプールには人もまばらだ。泳いでいるのも歩いているのも大人だけである。一番端のコースで、私は千早さんにマンツーマンで泳ぎの指導をしてもらっていた。私が初めて他の講師たちに紹介されたとき、担当者が「まだクロールしか泳げないらしいので、これからの伸びしろに期待の先生です!」と言った。私は顔を真っ赤にして頷くほかなかったのだが、「あ、それなら」と涼しい声が聞こえた。すらりとした美人が手を挙げていた。
「それなら私が教えましょうか。毎週十分だけとかでもいいなら」
 
 今は平泳ぎの練習をしていた。未だに原理がわからない。なんでこんな動きで前に進むことができるんだ。両脚を上手く使えていない気がした。腕の力だけで進んでいるような。プハッと顔を上げて、千早さんに聞いた。
「なんか溺れてるみたいじゃないですか?」
千早さんは「そうだねえ、」としばらく考えて
「股関節をもう少し柔らかく使うことかな」
と言った。
「ちょっと失礼するよ」
 プールの縁に手をついた私の足を取る。
「こーいう感じ」
 私の足が、スープの鍋をおたまでかき混ぜるときのように、なめらかに動いた。水の流れがふくらはぎに当たる感触が気持ちよくて、それに足首が千早さんに掴まれているのにどきどきした。
「じゃ、私は先に上がるから」
「はい、今日もありがとうございました」
 千早さんはいつも十分きっかりでプールを後にする。これだって彼女にとってはサービス残業だろうに、どうしてここまでよくしてくれるのだろうと思う。さっきの感触を思い出して、足を動かしてみる。まだぎこちない。千早さんの手の感触がなくなってしまう前になんとかしたかった。思わず私は壁を蹴って、水の中にするりと飛び出した。
 
 プールから上がったあとはいつも体が重い。
 いや、本当は逆で、自分はこんなに重かったのだと、水から揚がったことで思い知らされる。この地球上にいる限り、重力が私たちを解放してくれることはない。一時的に、「軽くなる」のが許されているだけで。
 公園の外灯が切れかけていて、いつもより一層暗い。辺り一帯がすべて水の中に沈んでしまったように感じる。真っ暗闇に遊具たちが溶けていって、次第にその輪郭が失われていく錯覚。
 ドン、と何かが私の肩にぶつかった。
 突然のことに、一気に鼓動が早くなる。
 足元を見た。もぞもぞと小さな生き物が動いている。私はしゃがみこんだ。
 一羽の小さな雀だった。
 
 帰宅して、激しく後悔した。私の手のひらには雀が握られている。あのとき咄嗟に、きっとどこか怪我でもしたんじゃないかと思った。その場に放置することができなかった。でも、間違っていた。私が雀を持ち帰ってしまったのは、ただただ誘惑に抗えなかっただけだ。
 小さな生き物の世話をしたかった。
 だって、小学生のころ、インコを飼っていた、同じ鳥だ、だから大丈夫だ。少しだけならこの羽に触れても、このふわふわとした体に触れても……。
 明るい場所になって、「ああ!」と私は叫んだ。雀はヒナだったのだ。クチバシの端々がまだ黄色い。ということは、きっと、この子は飛ぶ練習をしていたのだ。成鳥が足を怪我して弱っているんじゃないか、そう思いこもうとしていた。だって、そうであれば、私が保護する「名目」が立った。
 だが、ヒナを持ち帰るのは完全に鳥たちへの妨害行為だ。私はこの雀の未来を大きく変えてしまった。とりあえず、急いで砂糖水を飲ませた。それから、カイロを取り出してきて、小さな体を、過剰なほど温めてやった。
 雀は、ハァハァと息をしていた。必死だった。かなり弱っていることがわかった。雀の飼い方について調べた。調べるたびに「鳥のヒナを拾わないで!」と警告が出た。私は何度もそうして糾弾され、何度もうなだれるほかなかった。好奇心で小さな命に手を出したことを認めなければならなかった。そして、その結果、この命がどうなってしまうのかも。
 バサバサバサッ。
 羽音がした。子雀が一生懸命に翼をはためかせ、空をめざそうとしていた。ここには天井がある。空から沈んだ場所だ。ごめん、ごめん、と思いながら、カーテンに運良く着陸した雀を見つめた。雀は小首をかしげ、次にこちらへ飛んできた。人間が怖くないのだろうか。インターネットには、「人間に拾われたヒナには人間の匂いがつくため、親鳥からも見捨てられることが多い」と書かれていた。明日こっそり元の場所に戻しに行こうと思っていたが、それは無駄なことなのだろうか。ただ、雀の命を見捨てる結果にしかならないということか。
 パタタタ。雀が、私の肩に止まった。手でそっとくるむと、雀はぱちくりとまばたきをした。それが決め手だった。なんとかしてこの子を私の力で巣立たせようと思った。
 
 次の日、近所に個人経営のペットショップがあったのを思い出し、そこへ向かった。比較的目立つ場所にミルワームが売ってあるのを見つけて助かった。他に、すり餌とスポイトを見つけた。ボコボコボコ……と、壁一面に並べられた水槽から音がする。空気が泡になって天へと昇ってゆく。ここも、沈んだ場所、と思った。陸の上にありながら、水の中へ沈んでしまった場所をときたま見かける。そうした場所は、特別苦しいか、特別安らぐかのどちらかだ。その水の中での泳ぎ方というものがあって、それを身につけられなければ、溺れ死ぬしかない。店の奥に、老婆がどっかりと腰掛けていた。何をするでもなく、ただそこにいる。水槽にいた亀がばたばたと下手な泳ぎを披露したあとに、岩場までたどり着き、そこで落ち着いたのかじっと動かなくなった。私はミルワームとすり餌とスポイトをレジへ持っていった。老婆は何も言わず、値段だけ口にした。私はお釣りなしできっちりとその代金を支払った。
 私は虫が苦手だった。だが、鳥のためならなんとかできるだろうと思っていた。甘かったのだ。自分の虫嫌いと、鳥への愛情を、完全になめきっていたのである。
 雀は洗濯カゴの中にいた。昨日寝る前になって、潰してしまってはいけないと、とりあえず洗濯カゴをひっくり返して、その下にキッチンペーパーを敷いて簡易的な鳥かごを作った。そして、そこに雀を避難させておいたのだ。しばらくしたらちゃんとした鳥かごを買おうと思いつつ、洗濯カゴが思いのほかちょうどよくて、雀もこころなしか居心地が良さそうに思えた。
「ほら、ごはんだよ」
 洗濯カゴを開けて、雀を取り出した。ミルワームは、ペラペラしたプラスチック製の容器に、おがくずなんかと一緒に入れられていた。だから、開けるまではその姿を見ずに済んだのだ。パカッと蓋を開ける。なんだか嫌な匂いがした。そうとしか表現できない何か、特有の、ミルワームの匂い。それから、おがくずの隙間を縫って、白い体がにょきと顔を出した。
「ぎゃっ!」
 私はとっさに手を離してしまった。虫嫌いには、ちょっと受け付けられない見た目だった。あっ、と思ったときにはもう遅かった。
 バラバラバラ。
 ミルワームたちはひっくり返された洗濯カゴの上にぶちまけられた。ミルワームたちは、そこを新しいすみかとできるか品定めするように、うねうねと動いていた。泳ぐ場所を求めて彷徨っているかのようだった。各々がくねくね細い体をしならせ、ぐにぐにと前へ進み、私はさーっと血の気が引いていくのがわかった。ダメだった。虫は、さすがに。無理だった。でも……。なんとか割り箸で、震える手で、一匹つまんだ。摘まれたミルワームはグネグネと激しく抵抗した。助けてほしかった。誰も助けてくれるわけなどなく、助けてもらえる理由もなかった。泣きそうになりながら、ミルワームを、もう片方の手でくるんでいた雀の口元に持っていった。
「ほら、食べて、食べてよ」
 雀は、何を考えたのか、一向に口にしようとしなかった。目の前にぶらさげているのに。ほら、こんなに食べ物じゃないか。親鳥と同じように、餌を与えているはずなのに。なんで。
 一旦ミルワームをカゴの上に置いた。それからスマートフォンを開いて調べてみる。まだ餌をもらうのに慣れていないヒナは、ミルワームが動いたままだと食べないから、頭を潰してから餌やりしてあげると良い、といったようなアドバイスが書かれていた。
 頭を、潰す。
 このミルワームの。
 できるわけがない。私はカゴにぶちまけられた中から必死に、もう死んでそうな、動いていないミルワームを探してきて、それを代わりに箸で掴んだ。死んでいても気持ちが悪かった。なんとか我慢して、口元に持っていった。雀は口を開かない。
「なんで、なんでよ」
 これではダメなのだろうか。でも、何か食べないといけないんだぞ。ダメだぞ、これ食べないと死ぬんだぞ。私は虫嫌いなりに必死だった。雀は頑なに口を開かない。
 責められても仕方がない。生き物を飼う資格がないと謗られて当然だ。だが、あのときクチバシに箸を近づけて、雀になんとか栄養のあるものを食べさせようと試みていた私は確かに必死だったし、雀の命を助けようとしていた。このまま命が沈んでいくのを見ていることは、できなかった。
 結局、ミルワームが子雀の口に入ることはなかった。後処理をする必要があった。一匹一匹拾って袋へまとめるなんてことができるわけもなく、ミルワームたちは、洗濯カゴごと大きなゴミ袋に詰められて、アパートのゴミ捨て場に置き去られた。もう虫なんて一匹も見たくなかった。
 代わりに、すり餌をぬるめのお湯で溶いてスポイトで吸い取った。それを、祈るような思いで再び雀の口元に持っていって、流し込もうとした。雀が口を開いた。これなら食べてくれるようだった。クチバシをパクパクと動かしながら、なんとか嚥下しているのがわかった。よかった、よかった、と思いながら、私はスポイトで次々と雀に餌を与えた。
 あと数日、あと数日して、本当に元気になって、空を泳げるようになったら、そのとき外へ放そう。このまま飼い続けることは雀にとってよくないことのように思った。本当は、私が人間の世界に引き入れた瞬間から、この雀はそこでしか生きられなくなっていたというのに。
 しばらくは、そうした生活が続いた。すり餌以外に何か食べられればいいのだが、と思ったが、ミルワームがだめだった以上、ほかに優秀なタンパク源が何も思いつかなかった。本当は虫が食べられない雀なんか、もう生きていくことなどできないのではないかと思った。だが、それを私にはどうすることもできない。かわりに、しらすなんかを与えてみたが、雀はそれにも見向きはしなかった。見たこともない食べ物だから、怯えていたのだろうか。
 雀の考えていることなど分かるはずもなく、しかし私の部屋の中を溺れかけながらも飛び回る雀を見ていると、なんとしてもこの子をいつか外へ連れて行ってやらねば、と思った。
 もう大丈夫なんじゃないかと思って、ベランダに出したこともあった。でも、雀は飛んでいかなかった。不安げな表情で――とは私が勝手に思い込んだだけであるが――こちらを見つめ、ついぞ大空に飛び上がることはなかった。だが、部屋に戻した瞬間、その部屋の中では水を得た魚のように跳ね回ろうとした。
 私の部屋は、雀にとって安全で安心な場所になったのかもしれなかった。ちゃぷちゃぷと浅瀬でなら自由に泳ぎ回れる。教えてもいないのに、このころの雀は、少しずつ泳ぐのが上手くなっていったような気がした。
 いつか、この雀が大空を泳ぎ回ることを夢見た。なぜか千早さんが泳ぐところを思い出した。ゆらゆらと影が水面でゆらめいて、そしてスーッと切れ込みを入れるように水が掻き分けられていく。チャプ、チャプと水音は静かでいて激しく、身体が健康的にしなって、厳かに周囲の水たちへとその動きを伝える。水の中では自由自在に動き回れる。なんでも、昔はどこかの選手だったこともあるらしい。そんな人に、私みたいなへたくそが泳ぎを教えてもらうのは気が引けたが、千早さんのおかげで私も少しずつではあるが、水の中での身のこなしを習得しつけつつあった。平泳ぎはだいぶん上手くなって、次はドルフィンキックを練習することになった。バタフライの足の動作だ。両脚を揃えてマーメイドのように水を打つ。千早さんは、何度もうん、うん、とうなずいて「あとは身体で覚えていくしかないから」と言って帰っていった。
 
 ある日バイトから戻ると、雀はぐったりとしていた。萎びた様子で、机の上に横たわっていた。どうしたんだ、と駆け寄る。大丈夫か、お腹すいたのか、水は。与えたが、飲まない。すり餌をスポイトから流し込もうとしたが、食べない。それで、やっと、もう私には何もしてやれることはないのだと分かった。食べる体力もこの雀には残っていないのだ。とりあえず体だけ、温めることにした。雀は、ただ、ハァハァと苦しそうに呼吸をするだけだった。雀は溺れていた。浅瀬で溺れていた。やがて、雀の動きは緩慢になり、目も閉じがちになっていった。
 雀は、私の手のひらの中で死んでいった。
 こんなにあっけないんだ、と思った。
 私のせいだと思った。私が拾ったから、この鳥は私の部屋でしか飛べなくなってしまった。ついに虫も食べなかったし、餌のとりかただって知らなかったから、ここでしか生きられなかった。死んでしまった。
 私は、夜中にこっそり、公園へ向かった。雀が肩にぶつかってきたあの公園だ。よくないことをしていることは分かっていたが、雀の亡骸を、公園の木の下に埋めた。小さなスコップで、硬い土を掘った。どのくらい深く掘ればよいのか分からなかったが、雀の体は小さくて、少し掘っただけでもすっぽりと、その体が埋まってしまった。墓標の代わりに小さな石を立てたが、それもいずれ他の石と見分けがつかなくなるだろう。私も、ここに雀を埋めたという記憶しか残さず、具体的に、どこに埋まっているなんてことはすっかり忘れてしまって、それで、罪悪感とともにこうして時たま語るだけになる。
 ……ネットで散々野鳥を拾うなって注意喚起されているのにですね、愚かなことに一度だけ雀を拾ってしまったんですよ。そのときはまさかヒナだとは思わなくて、成鳥で飛べなくなっているのだとしたら、なんとか小鳥に詳しい獣医さんをあたれば助けてあげられると思ったんですよね、いや助けてあげられると、そう思うこと自体がもう人間のエゴなのかもしれませんけども……、名前? はつけませんでしたよ、特にそんな考えにも至りませんでした、最初は砂糖水をあげてみて、次の日に餌を探しに行ってですね、それでなんとか数週間は飼育していました、けどある日、急激に弱ってしまってですね、突然溺れるように死んでいきました。本当に今となっては、私は馬鹿だったなと思うんですが、一番愚かなことは、こうしてあなたに死んだ雀の話を聞かせていることであることは言うまでもありませんね。だけど、それで、それで……。

  雀を埋めたあと、いつものように出勤すると、千早さんが私の元へやってきた。浮かない顔をしている。実家に戻らなきゃいけなくなって、と彼女は言った。どういった事情なのかは分からなかったが、私は急速に悟ってしまった。この先の人生で、再び彼女と会えることはもうないのだ。どう返したのか覚えていない。何かを言いかけたことだけを覚えている。しかし、言葉が水に足を取られて、それから浮かんでこなくなってしまった、私はしばらく口を開けたままで、それからゆっくりと唇を引き締めて、厳かに「今まで泳ぎを教えてくださりありがとうございました」と頭を下げた。
 去っていく千早さんの方を見つめて、もう一度、
「本当に、ありがとうございました」
と言った。

 海から陸へ、生き物が上がっていったときにも、本当はこういう感じだったんじゃないかと思う。なかには水の中へ再び戻ってきた生き物もいたが、大半は、陸に上がったっきりもう戻ってこなかった。ここでは溺れることはない。いや、違う。生き物たちは、陸から上がったことで、溺れるということを初めて知ったのだ。でも、海に近づかなければ溺れなくて済んだ。だから、陸で生きていた。空を飛ぶものも溺れなかった。だが、溺れるように飛ぶことはできた。水の元に一度帰って、そうしたら溺れるということがあるのだと知って、そうして溺れることを覚えた生物は、陸の上でも溺れるようになる。

 今さら、かずきくんの泳ぎ方を美しいと思った。なぜあんなふうにして進むことができるのだろう、とまた思った。バチャバチャ! と相変わらずうるさくて、フォームは全然なっていなかった。だが、なぜか彼は後退することがなかった。少しずつでも、少しずつでも前へ進むことができた。私はきっと、泳ぎが得意になったかずきくんを見たら残念に感じるだろうと思った。喜ぶべきことなのに、泳ぎが下手なままであってほしいと思った。それに気づいたとき、私はもうだめだなと思った。分かっていた結論を先延ばしにしていただけだった。自室に戻ったあと、ハァハァと、あの雀の真似をしてみた。
 千早さんがプールを去ったあと、私もバイトをやめた。洗濯カゴは結局買い換えることなく、欠けたままで次の部屋へ引っ越してしまった。スポイトやすり餌は、雀が死んだその日に捨てた。結局、四泳法はマスターできないままだった。