保坂和志『小説の自由』感想

Diary書籍感想

保坂和志『小説の自由』(中公文庫)

公式サイトより引用

https://www.chuko.co.jp/bunko/2010/05/205316.html

読み始め:2023/3/18  読み終わり:2023/3/22

あらすじ・概要
小説には、「考える」という抽象的な時間が必要なのだ。誰よりも小説を愛する小説家が、自作を書くのと同じ注意力で小説作品を精密に読んでみせる、驚くべき小説論。

読んだきっかけ
Twitterで見かけた。読書論の本を探していた。『書きあぐねている人のための小説入門』は既読だったのでこちらも読んでみようと思った。

コメント・感想
面白かった。Kindleで読んだので、ハイライトを入れた箇所を挙げていきたい。

良かった文・シーン
・「(中略)一番の違いは「私」あるいは「今日」という言葉の指すものの絶対的な違いだ。」(p.8)
小説とエッセイ・評論・紀行文などとの違いは何か、ということについての一文。そして、文章はこう続く。

・「「私」が書いているその人と一致するかどうかなんて、小説においては全然問題ではない。問題なのは「私」の"能産性"とでもいうことだ。この"能産"という言葉は広辞苑にさえ載っていないひじょうに特殊な言葉で、もしかしたらそんな言葉は日本語にないのかもしれない。しかし、"産む能う"="(イメージ・情景・出来事……etc.を)産出する能力"というのはじつに小説にふさわしい。」(p.8)
結局この言葉が実在するのかどうかはわからないのだが、そんなことは些細な問題だということなのだろう。これがまだ、まえがきの文章なんだから面白い。まだ本編は始まってすらいないのにこの飛ばしよう。

・「しかしその心情には何も実体はない。しかし実体はないのだが、何かを感じているような気分は醸し出される。それが映画の何ヵ所かで演出されることによって、見ている者の気持ちはだんだん誘導されやすい状態になっていき、ラストあたりで雪崩を打つように感動させることができる。」(p.31)
小津安二郎の映画は余韻を作り出さない。そもそも「余韻」というのは何か、というときにこの話が出てくる。これはなるほどと思う。そこに実体はない。実体はないが、何かを感じているという気分だけがあり、感動があとから駆り出される。それで私たちは「感動していたのだ」と錯覚する。いや、これは私が曲解しすぎているかもしれないが、そういう作品って確かにあるなと思う。それが悪いというわけではない。

・「あるいは、私たちがふつうに想像する映画というのは、文章を読むような注意の働かせ方で理解可能な映画のことである、ともいえるのではないか。」(p.48)
保坂和志は、私たちは小説を読むような仕方で映画を見ているのではないか、という。そもそもなんでこういう話になっているかというと、まず小説と「私」というものとの距離感の話をしていたのだった。小説における語りというのは、人称や視点というよりは、私、と作品世界との関係「私の濃度」という言い方で言い表すことも可能なのではないか、という文脈がある。私の濃度が増した語りばかりが小説で描かれていて、そしてそういうふうに書かれたものだけに文学性を感じる人が読者にも書き手にもいっぱいいるのではないか、という指摘がされている。
そもそも、こうやって保坂和志の思考をあとから成形しなおす作業がかなり無駄なのだが(語りがあちらこちらへ飛んでいき、それを追う時間のなかにしか何かが見いだせないため)、補足として最低限記しておく。

・「一つの小説を読むときに、その小説の固有の面白さやいわくいいがたさ(説明のつかない面白さ)を発見できないかぎり、その小説は型や時代・社会の傾向の産物にしかならない。ではいまどれだけの読者が純粋にいま自分が読んでいる小説、、、、、、、、、、、、の固有の面白さを発見しているのか、ということになるとまた話は込み入ってきて、(中略)——つまり、逆の言い方をすると、小説を総括的な視点から語る人は、小説に関心があるのではなく、時代や社会や、その関数としての個人に関心があるということで、せめてそのことに評者本人がもっと自覚的であってほしい。」(p.50)
いいぞいいぞ〜。正直、私は小説の感想を書くのが苦手だ。書けない。すらすら書けると罪悪感を覚えるほどだ。だってそれは作品そのものについて書けているということでは全くないのだから。かといって、私にとって面白くなかったものについて書くときもそれはそれで難しく、特に言いたいことがないな、何事も干渉せずすべて私の中を通り過ぎていってしまったなとしか思えないので、なんとか絞り出して書くしかなくなってしまう。だったらなんでこんなブログをやっているんだという話になるんだが、まあそれは置いておいて、この部分には私はかなり共感してしまう。そもそも小説の面白さって伝えられるものじゃない。でも、言葉を尽くすことでしか相手が見向きもしてくれないから仕方なく言葉で伝えてあげているのであって、書評家や批評家というのは大変親切な人だなと感じている。

・「そこで「いい文章」という規範を考えてみるとどうなるか。「いい文章」とは、(1)イメージ寄りの読者にとっては、情景描写の箇所になっても、他のところとだいたい同じ速度でひっかかりなく読める文章ということで、(2)言葉寄りの読者にとっては、情景をいちいち映像として出力させなくても困らない文章ということになる。」(p.56)
これは、イアン・ロバートソン著『マインズ・アイ』について言及した箇所である。なにやら二つの文章が並べてあって、どちらを読む方に時間がかかるかで、普段自分が「イメージで考える」タイプなのか「言葉で考える」タイプなのかがわかるという。私は前者だった。これは全く考えたことのなかった話だったのでハイライトを引いた。私は(2)の人の存在を全く考えたことがなかったのだ。ここで、どちらのタイプにとっても読みやすい文章の例として、志賀直哉『暗夜行路』の一部が引用されているのだが、納得だった。情景描写が時系列にそって書かれていて、時間的に行ったり来たりする必要がない。そして、情景がすべて動作で書かれていて、文章で読むタイプにとっては動作を終えば文章の大意がわかるようにできているという。面白い。読みやすけりゃいいってことではないけれど、そういう視点は持ったことがなかったので新鮮だった。

・「小説とはまず、作者や主人公の意見を開陳することではなく、視線の運動、感覚の運動を文字によって作り出すことなのだ。作者の意見・思想・感慨の類はどうなるのかといえば、その運動の中にある。」(p.61)
来たー! サビです。ここ。

・「小説にはいったん書き上げたあとに修正可能な要素と不可能な要素があり、修正不可能な要素が小説世界を作る、というか作者の意図をこえて小説をどこかに連れていく、、、、、、、、、」(p.74)
これは体感としてよく分かる。なんかここを崩したら崩れてしまう、というかそもそも崩せない見えない何かがあって、その範囲内で改稿したり書き直したりしているような気がする。

・「「わかる」「わからない」ではなくて、何度でも聴くことがその音楽を好きだということの実践であるはずで、それを彫刻にあてはめれば、彫刻のまわりを歩き回っていろいろな風に見て、そうしていることに少しも退屈しないということは、それだけでじゅうぶん作品に対する評価になるのではないか。」(p.79)
分かり蟹100匹来ちゃいました。

・「本題をはじめる前に傷痍軍人のことで、いままで全然知らなかったことを知ったのでそれを書いておこうと思う。」(p.84)
ここは、琴線に触れたというより「そんなことしていいんだ」とウケてしまったのでハイライトしていた。これは、新潮で連載されていた文章を一冊にまとめた本なのだが、その連載というのも基本的には回数も決まってなくただ思ったことを書き連ねていてこうなっているっぽいので面白すぎる。連載で回数決まってないで好き勝手書かせてくれるとかあるんだ。

・「書くこと、読むこと、考えること、事実を知ることは、過去にその力を及ぼしうる行為なのではないか。(中略)書くということは起源として、過去や死者に捧げる行為だったのではないか。」(p.86)
加速! 加速!

・「私は傷痍軍人の知らされなかった事実を起点にして——つまりダシにして——、書くこと(の原理や本質)を考えたのではない。この全体が傷痍軍人に関わっている。人間の思考というのは、原理を考えるために個別を必要とし、原理を考えているときにもそれを導いた個別が息づいているという重層性を持っていて、個別を忘れたときには原理もまたリアリティを失うという、そういう円環をなしているものだからだ。」(p.86)
良すぎ文章。

・「「掟」は、掟の信奉者を寝かしつけるものである」という一節に私は感動した、というか強く同意して、その気持ちは三ヵ月を経過してさらに強くなっている。 小説は、読者の精神を寝かさないためにあるものなのだ。」(p.165)
サビ2きました。

・「たとえば小説と小説家の関係は、羊の群れと牧羊犬のようなものだ。何十頭かの羊たちが気ままに草を食べながら移動しているその群れを、評論家は能力が高い牧羊犬がきちんと誘導しているように読むのだが、小説家自身は出来の悪い牧羊犬でいたいと思っている。」(p.166)
この例えすごくいいなと思った。めちゃくちゃわかる。ちなみにこのあと、小説家は一年に1000枚書ける人がほとんどいない、なぜか、という話が始まる。それに「小説を書くことは、自分がいま書いている小説を注意深く読むことなのだ。小説家はどんな読者よりも注意深く、自分がいま書いている小説を読んでいる。」という文章が出てきて、保坂〜!!!! という気持ちになる。

・「「一般」というのはただそこにいる人のことではなくて、最も標準的な言語の使用法をしている人のことなのだ。」(p.179)
ここはなるほどと思ったのでハイライトを引いていた。私たちは言葉の使用法を変えるために日々戦っている。

・「締め切りを切られるから、、それまでに書き終わりたいというのではなく、締め切りなんかなくても、、自分がぼんやりと決めた時点までには書き終わっていたいと思い、「やり足りない」と感じるところがあっても、もう一回書き直せばもっとよくなるだろうと感じていても、よっぽどはっきりした方策でも見つからないかぎり、そこで切り上げてしまうものなのだ。」(p.184)
これはつい先日自分が体験したことだ。ずっと、漠然と全6篇の短編集を作りたいと思っていたのだが、書こうと思っている一作がどうしても書けない。この作品のせいで他も書けなくなっていた。締め切りも迫っていたが、正直なところ早く楽になりたいというのが本音で、結局、書けなかった一作を抜いた全5篇でも短編集が成立すると言い聞かせながらそのまま入稿してしまった。「やり足りない」と感じているからいずれ、続編を書き始めてしまうと思うのだが、それでもこの短編集そのものに、もっと粘ってやり込んで、ということは難しかったと思う。切り上げてしまった。締め切りは確かにここでは大して重要な問題ではなかった。

・「小説の想像力とは、犯罪者の内面で起こったことを逐一トレースすることではなくて、現実から逃避したり息抜きしたりするための空想や妄想でもなく、日常と地続きの思考からは絶対に理解できない断絶や飛躍を持った想像力のことで、それがなければ文学なしに生きる人生が相対化されることはない。」(p.266)

・「作品というものにはコンセプトや理論をこえてその先に作者自身を連れていく力があって、コンセプトや理論が明らかに顕れてしまうものは作品としての力がじゅうぶんでないのだ。だからそれらコンセプチュアルな小作郡が大作とつながらないかぎり「光」は見えない。」(p.311)

・ハイライトはしていないが、引用されていたアウグスティヌスの『告白』がすごすぎたので、いつか読んでみようと思った。

・「小説とは注意深さを問われる読書体験のことだ。だから注意深くない読者は書いてあることをそのまま自分が考えたことのように読んでしまって、「この人は私と同じことを考えている」とか、「あたり前のことを書いている」とか、「これはすでにアリストテレスの時代から問題にされていることだ」とか言うのだが、その人たちは自分が小説という乗り物に乗って、その窓から景色を見せられていたことに気づいていない。」(p.343)
刺さる刺さる、死ぬて。というか、これらの言葉は実際に言われた経験があるのだろうか、なんだか棘があるように感じたのだが。

・「そうではなくて、質問の形をとっているように見えて、実体として何も問われていないような質問もどきが、質問するという行為の価値を失わせ、同時に質問に対して考えるということの意味も失わせるように、意味や問いへの指向を失った小説は、小説を形だけのものにしてしまうということだ。」(p.350)
存在級位の凋落の話がなされている。

・「読者の数が増えると、作品をそのまま受け止められない読者があらわれてきて、作品を読者に仲介する役割として評論家が駆り出されて、評論家は、読者が未知の領域に連れ去られないように、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、作品の側でなく読者=社会の側で作品を読むから意味を語ることになる——という仕組みが、文化的なものを必要とする社会の中にはあるのかもしれない。」(p.354)
全体的に評論家への殺意が高い。