郡司ペギオ幸夫『創造性はどこからやってくるか—天然表現の世界』感想

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郡司ペギオ幸夫『創造性はどこからやってくるか—天然表現の世界』(ちくま新書)

https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480075758/

読み始め:2023/8/30  読み終わり:2023/8/30

あらすじ・概要
考えてもみなかったアイデアを思いつく。急に何かが降りてくる―。そのとき人間の中で何が起こっているのか。まだ見ぬ世界の〈外部〉を召喚するためのレッスン。

読んだきっかけ
千葉雅也のツイートで見かけて面白そうやなあと思った。

コメント・感想
 なんか全部大事で線とか引けんかったので読み返しながら感想を書くことになる。こんなことなら紙で買っておくんだった(線を引きそうな本はKindleで買うようにしているのだが今回はそれが裏目に出た)。筆者の本を読んだのは初めてで、それ以前から天然知能や天然表現といった主張をされていたということは本を読み始めてから知った。
「天然表現は表現に向かうための態度であり、完全な不完全体である。芸術家は、『外から来る何か、インスピレーション(霊感)を受け取るのだ』と言ったが、その受け取るための態度である装置は、形式化できる。それは、何がもたらされるかはやってみないとわからないものの、『やってみよう』という賭けに出るだけの仕掛けなのである。」(p.14)
 最初の方を読み返していたら全部まとめてあった。そういう話が展開されます。良いな、と思ったのが「賭け」なければならないというところで、賭けに出ないと創造は始まらないと言い切ってくれているところだ。これは自分の体感としてもそうなので(そして最近は書けなくて病んでいる)。一方で、「ほとんどの人間は『世界拒否』などできない。空っぽになって外部を待つという賭けに出られる者は、創造の悦楽に一度でも触れたものか、自らを顧みない暴力的な若さをもつ者だけだ。」(p.195)とも書いてある。賭けること、外に出ること(あるいは外から何かを待つこと)は難しい。しかし、ここに天然表現という実践がある。天然表現によって、私たちは創造性を得ることができるという。「異質なものを共に肯定し、さらにそれを共に否定する。その構造自体が、作品化を召喚し、しかし作品もまた、このトラウマ構造を体現することで外部を召喚する。創造とはそのようなものである。」(p.59)
 吉行淳之介と保坂和志の小説をトラウマ構造から読み解くパートがなかなか面白かった。「つまり、作家は、何かを描き切ることで完成をみるのではなく、描き切れないものが押し寄せる穴を描くことで完成をみる。」(p.84)
 その後の章では、筆者が実際に制作を行った際の思考プロセスや進捗状況が事細かに描かれ、そこだけでも非常に参考になる。さらに、天然表現がどこに位置づけられるか論じる章では興味深いたとえが出てくる。「部屋の中にある椅子は皆、座られていて空きはないが、誰か来れば、椅子は増やせますよ」、これが現代科学の思想である。対して、「最初から部屋に誰も座っていない椅子を用意する」芸術の思想を、虚無や穴が「不在」として理解されるための端的な表現、「完全な不完全体」であるとする。(ここから、芸術は明らかに科学とは異なる営みであると主張される。むしろ、芸術の方法でなされる科学が発達する必要がある、とも)。また筆者は、芸術に死を宣告し、新たな芸術を模索するときに必要となる普遍的な展開こそが天然表現であると説く。「天然表現において、『完全な不完全体』は、まず二項対立を見出し、その肯定的矛盾と否定的矛盾を共立させることで、仮に構想された二項対立の基盤に亀裂・穴を穿つことになる。こうして得られた装置こそが、作品である。外部はこの亀裂・穴を目掛けてやってくる。」(p.179)
 このあたりは、荒川修作+マドリン・ギンズを読んでいる気分になった(もっとも荒川修作+マドリン・ギンズの文章のほうが読みづらいが)。つまり、言っていることはわかるが、本当に私のこれは「わかっている」のか? 天然表現について理解できたとて、実践するのはまた別の話でけっこう難しくないか? という戸惑いと興奮があった。そんな戸惑いに応えるかのように、最終章では具体的な天然表現が挙げられるのだが、そこに腐女子があったのには笑ってしまった。また、カウンターライトニングの話が面白かった。肝心の、天然表現を自身に活かせるかどうかだが、ちょっとまだ自信がない(というより、実際に作品が出来上がる過程で、これは肯定的矛盾だったな、これは否定的矛盾だな……と自覚できる自信がない)。しかし得るものはあったと思う。なんとなく全体の感じ、本の雰囲気がとても良かったので。