もうダメだ!AIの小説が上手すぎる、のか
【全編公開!】もうダメだ! AIの小説が上手すぎる――現代作家3人の緊急会議|笠井康平+樋口恭介+山本浩貴(いぬのせなか座)
観ました。正確には、読みました。実を言うと、当日リアルタイムで視聴していたのですが、途中であまりにも体調が悪くなって(動画のせいではないです)離脱してしまったのでした。そのため、要旨をまとめた記事が出てくれたことに本当に感謝しています。
おそらく大した価値のある文章にはなりませんが、いま小説を書いている者としてこの対談に対して何を思ったか、本当に「もうダメ」なのかなど思ったことをポツポツとまとめておこうと思い立ち、ブログを書いています。当初はSNSにツリー形式で投稿するかと思っていたのですが、まあブログの方が見やすいしね……と思い。
まず私の前提をお伝えしておかなければなと思います。藤井佯(ふじい・よう)という名前で小説を書いていて、プロ志望のアマチュア。少しだけ賞はいただいたことはあるものの商業出版につながるような賞での受賞歴はまだないという状態。「鳥の神話を伝えます」をコンセプトに書いており、人間があまり好きではありません。というより、小説や物語がこれまで人間にばかりフォーカスを当ててきたことに怒りを覚えています。しかし小説において動物や人間以外の存在を登場させても、それはすぐ「擬人化」してしまう、という問題はある。ときには動物を擬人化したまま書ききったり、むしろ擬人化せずに人間とは異なる存在であるように強調して描いたり、と試行錯誤しながら、なんとか「鳥の神話」を探っているところです。
私も小説にAIを使おうとしたことがあります。これは完全に個別具体の話なので参考になるかはわかりませんが、一応書いておきます。私は、この動画の登壇者たちのようにテキストそのものをLLMに出力させるという方向ではなく、あくまで作品製作の補助ツールとして使用できないか試していたことがあります。使っていたのはClaudeでした。小説にも応用できる技術として、脚本術がありますが、Claudeにプロットをつくってもらい、機械的に盛り上がる作品をつくれないか考えていました。きっとエンタメ向けの作家であれば自分でできること、LLMを使ってもなお自分がハンドリングできること、なのだと思いますが、私は結論から言うと、そうして出てきたLLMのプロットに自分の文章を載せることはできませんでした。やっぱり読んでいて面白くないんですよね。どこかで見たようなものになってしまう。しかしそれは、私のプロンプトが悪いのだと思います。私ではLLMの力を小説の領域において十分に発揮させてやれないな、というのが一通り試してみての感想になりました。そして、それを探究するだけのモチベも私の中にはありませんでした。自分がエンタメ作品をつくるのに向いていないとか、売れる作品の骨格を取り出したら面白くないのはある種当然かもしれないとか、色々考えましたが、もっと根本的な部分で「なぜAIでなければならないのか」という疑問が頭から離れませんでした。
私が小説を書きたくて、私の作品なのに、なぜわざわざAIを使わなければいけないんだろう、と思ってしまいました。LLMをキーボードなどのツールと等しく扱うのであればこれはおかしな話です。誰も「小説を書きたいだけなのになぜキーボードにそれを邪魔されなければならないのかわからない」とは言わないでしょう。しかしLLMはアイデア部分にまで口を出してくることが可能なので、私としては「そこまでしてほしくない、邪魔しないでほしい」という気持ちに落ち着きました。思ったよりも自分は「私が書くこと、考えること」を重視していたんだな、と思いました。だから正直、誰がAIを使って書こうが、AIの小説が世に氾濫しようが、私は私で書き続けるのだろうなという確信も持てました。これは悪いことではないと思います。とはいえ、それは私が「いまのAIの小説スキルで書かれたものを小説とは素直に思えない」という心の裏返しだったりもするのではないかと思います。率直に、私はまだAIのことを「小説が下手」だと思っているのだと思います。Claudeは複数あるサービスのなかでもずば抜けて忖度力が高いですが、そのClaudeに小説について考えさせても大して面白いこと言ってくれません。記事内ではリアルタイムにLLMで小説を生成するデモをやってくれていましたが、正直それも個人的にはそんなに……な感じです。小説の形を真似た別物という感じがします。唯一、山本さんの生成していた、「作例②」はすごいと思いました。自分が自然と脳内で小説を書いているときに行っているであろう処理を言語化してやるとそれを再現することができる、というのは興味深いです。だから、LLMに小説をやらせるには、まず自分の頭の中で小説を書くときに何が起こっているのかを分解して再現する必要があるのだと思います。それはそれで興味深いですが、水資源を始めとしたLLMを取り巻く限りあるリソースを割いてまでする必要のあるものだろうか、とは思います。結局、私は小説にAIを用いること、小説をAIと書くことに大してあまり面白みを感じていないようです。
一方で、これはあくまで「私が小説を書く理由はAIに奪われないだろう」というだけの話であって、自分がそれで満足できているのならそれはいいと思うんですが、今回議題にされていたこととは少しずれると思います。そもそも、人間が「小説を書く」ことそのものの社会的・文化的意義の底が抜ける可能性を山本は指摘します。
なぜ人間がこれまで小説や詩を熱心に書き、各所で尊重してきたかといえば、そこには人類史的に重要な意味があると信じられてきたからですよね。ハードなテキストを書き、人と共有すれば、人類にとって既出ではない新たな法則性や感情や思考を発見できたり、結果として社会や政治や個人を変えることができたりすると人は信じることができていた。でも今は、良くてエンタメの一種としてしかもう信じられない。
山本はこう言います。そうなのかな、と思います。小説の意義ってよくわからない。これまでは人間にとって重要と信じられてきたのか、なるほど、とどこか他人事のように感じてしまいます。これは私があまりにも歴史の勉強をしていないことが悪いのだと思いますが、あまりピンと来ません。確かに私も小説を書くときに「そこにあるのにまだ誰も見ていないものを『ここにあるよ』と指し示す」ために書いているなと思うときはあります。ここで言われていることはそれと同じような意味合いだと受け取っていいのでしょうか。昔はすごかったんだろうなと思います。昔っていうのは、文壇が機能していたり、みんなが本を読んでいた時代のことです。もう今はそれがどのような雰囲気だったのかわからない、私が生まれたときから小説はこの姿をしていたので想像するのが難しいのですが、少しうらやましく感じます。しかし、「今は、良くてエンタメの一種としてしかもう信じられない」とも私は思っていないというのが率直な意見です。でも、これも自分が小説を書く人間だからそう思うだけかもしれません。むしろ、小説がエンタメの一種としてしか存在しえないのであれば絶滅していいだろと思います。それよりエンタメに特化したコンテンツはたくさんあるのですから。そのなかで、一部のニッチな需要に支えられて延命するだけの小説なんてさっさと滅んだ方がマシではと思います。でも、実際いまそうなってきていますよね。小説そのものというよりやはり受け手の問題だと思っていて、自分に肉体があること、肉体を経てなんらかの刺激を受容し反応していること、その反応と傷によって新たな連鎖反応が生まれること、それを繰り返して生が成り立っていること、に自覚のない個体が増えているのではと思います。これはストイックな考え方かもしれませんが、ショート動画ばかり観てる人はやっぱり身体がショート動画で出来ていくんだと思ってしまうんですよね。食べるものと同じで、何を食べて自分というものを作りたいかということに無頓着な人が増えたのでは、というか、そんなことを考えている暇がないくらいに向こうからコンテンツが無理やり迫ってくるのでは、みたいな印象です。
なので、AIが小説をつくると言われるときに必ずくっついてくるのが「良質な小説が『量産』されて、人間の書いたものが読まれなくなる」みたいな話だと思うんですけど、これも好きにすればええやんと思います。自分好みにカスタマイズして美味しい小説がAIでつくれたのならそれを食べればいいし、逆にAIの量産したものなんて食えないと思うのであれば人間の書いたものを読めばいいし、というか人間の書くものでも栄養価の低いものはいくらでもあるので、そこは別にAIが台頭しようがしまいが大して変わらない部分ですよね。ジャンクフードが食べたいときもあるでしょうし。人間は大規模言語モデルになれないからこそ、何を摂取するのか、しないのかといった部分で個性を出せるはずで、そうして独自の魂の形をつくっていき、そこから再び価値あるものがつくりだされ……みたいなサイクルがつくれるという世界観で私は生きています。
それで面白かったのが読み書きリテラシーの話。だんだん読み書きリテラシーがある人のなかでも格差が広がりそうで暗い気持ちになりますが。動画の方が身体に合っているという人もますます増えるんだろうなという印象です。日本の近世や中世、古代には儲からないのに言語を公共事業として何度もやろうとしていた痕跡があるという話は面白かったです。やはり、話が通じる人はなるべくなら多い方がいいのでしょう。文学が自尊心を持てるようになる、というのもまず言葉がわかる人が一定数いないと成り立たない。
山本: なんだか今日は暗いことばかり言う人間として話してしまったのですが、やっぱり20世紀の遺産を上の世代から背負わされて、その後始末ばかりで残りの数十年を生きて終わると考えると、ほんとうに暗い気持ちになる(笑)。たとえ作品単位で新しいことを試みても芸術・文化というジャンルそのものが「もう終わった」と思われているような状況のなかで、「いや小説や詩にも意味があるんだよ」と語っていく役割に奉仕すること自体に、いい加減、うんざりしています。
樋口さんにとって小説を書くことと日々の仕事がつながっているように、僕も「複数人による共同制作や対話の方法こそが『小説』なんだ」と思いながら「いぬのせなか座」というグループを立ち上げ、活動をしてきたわけですが、とはいえそれは「小説を書くことは良いものだ」という、ある種の保守的な価値観が先行してあったからこそできた、いわば二次的な応用的展開でもあった。「それだけじゃないんだよ」と言っていけたわけです。でも今はもう、カウンターの相手自体が不在になったというか、ゼロから「文学には価値があるんだ」と語らなければならなくなった感覚が強い。
かといっていまさら「文学には価値があるんだ」と素朴に声高に言って死ぬのもバカみたいだ。過去の遺産を処理すべきタスクとして背負わされながら、そこにどれだけ新しいものを取り込んでも、結局は産業的に――いま生きている労働者や在庫のために――その場しのぎの延命の道を選ぶしかない「文学」市場の運動に呑み込まれる帰結しか見えてこない。
この話に、本当に同意してしまいます。なんで私がわざわざそんなことまでしてやらなきゃならないんだ、と思ってしまいます。本当に、どうやったら小説って読んでもらえるんでしょうね。やはり、他分野との協働しかないのでしょうか。将来に希望を持つのが難しいです。読み手の増やし方がわからない。どんどん書き手が読み手を兼ねることが多くなっているのではないかと感じます。詩歌の世界ではすでにそれが起こっていて、まあ起こっているなりになんとかなっているので、それでいいのかもしれませんが、そうなるともう「社会的な意義〜」とか言ってられない状況になってしまう。いま、まだ小説はギリギリ踏みとどまっているんじゃないかという希望的観測があります。文学が世界にできることとしては、月並みですが想像力を与えること、他者の視点を垣間見させること、なのだと思っていますが、どんどん想像力のない、他者のことなんてどうでもいい世界に今なっていて、それにどうやって抗っていけばいいのだろうと絶望します。読み手の裾野を少しずつ広げていくしかないのかもしれませんが、やっぱり「なんで私がそんなこと」と思ってしまうのが本音ですし。まあでもやらなきゃいけないんでしょうね。何を書いてもツーカーでわかってくれる読者ばかり相手にしていてはいけないんだと思います。結局、やっていくしかないという話に落ち着きますね。どうせ失望することばかりが待ち受けているだろうが、それでもやるしかない、みたいな。
嫌だけど、書くしかない。書いて、少しでも裾野を広げていくしかない。少しずつ世界の色を塗り替えていくしかない。山火事に水を運ぶハチドリになった気分ですが、常に自分にやれることを探しつつできることやってくしかないですね。救いのある感じで終われなくてすみません。は〜がんばりましょうね、みなさん。


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