【鳥の閑話】2025-12-01〜12-12

2025-12-12Diary日記,鳥の閑話

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あったことや考えたことのまとめです。章立てはこちら。

・例えば(天気の話をするように痛みについて話せれば)
・かもめマシーン「南京プロジェクトvol.6」
・『落下の王国』観賞
・サーデク・ヘダーヤト『盲目の梟』読書会
・近況
・佯々の掲示板

例えば(天気の話をするように痛みについて話せれば)

観に行ったのが12月2日なんですが、ばたばたしており書くのが十日後になってしまいました。

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大変バランスの良い展示でした。
まず陳列館に入ると、スタッフの私物と思しきPCが充電されてあったのですが、これも展示かと思ってしまった。


外からも一発でこの展示だとわかるの、嬉しいですね。

まず入口で、パレスチナに寄せたラグが目を引きます。

以下、気になった展示を挙げていきます。


まあおそらくJ・K・ローリングに向けたものだろうなと思しき作品。さいとうえな「Howler」。

目当てというか、この展示を知ったのはヤマモトナツキさん経由でした。ヤマモトさんとは第1回AAF戯曲賞関連プログラム「戯曲/演出集中キャンプ」にて出会いました。

「アイドルと、ヒト/カイコの関係について同時に考えていたら、じゃんけんの曲ができました。本作の本になった、カイコにまつわる推し活的ノリとマインドセットの活動=「蚕活(かいかつ)」の記録などと共に映像にまとめています。産業のシステムに組み込まれたヒトとカイコの関係を、友人や家族を巻き込みながら活動として捉え直していきます。」とのことで、蚕の蛹や糞を食べたり、実際に繭から糸を採ったりしているところがvlogにまとめられ、その合間に曲が流れるという構成でした。

https://on.soundcloud.com/nrnBipzcmn5YfFbJOZ

じゃんけんの歌はここから聴けます。パンチラインが良いですね。あと、この展示にこの作品が含まれているということに非常に意味がある気がしていて、素晴らしいなと思います。蚕のことをもっと知りたくなり、実のところ次回作は蚕の話になりそうです。鳥も出てきますが蚕メインになるかも。


展示のなかでは、横尾拓郎「Our Implications 2024」が特に好きでした。


あとこれも良かった。ブライネン新那サイデ「皮膚と記憶の縫合 2025」。その手があったか、と思わされたと同時に、作品の仕上がりの良さにも単純に感動した。

あとは、ごめんなさい、作者と作品名を失念してしまいましたが良いなと思った展示の写真を列挙します。

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そして、関連するZINEなどを置いてある場所に「イデオロギーマッチング」という面白いZINEを見つけました。

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めっちゃ面白いし、映画リストに気合いが入っている。匿名(イニシャルのみ)のZINEで詳細は不明ですが、読めてよかったです。

滑り込みでしたが、観れてよかったです。このあと湯島まで移動してシーシャしたあと吉池で魚買って家で刺し身パーティーをしました。良い日になりました。

かもめマシーン「南京プロジェクトvol.6」

そしてその次の日に、今度は横浜でかもめマシーン「南京プロジェクトvol.6」のゲネプロに参加させていただきました。これも、戯曲キャンプ関連でお声掛けいただき、私からはかもめマシーン主宰の萩原雄太さんに『見習い鳥卜』と『鏡/分身 月編』(「ピカ」収録)をお渡しし、小説と舞台の物々?交換と相成りました。

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あまり写真は撮れていないのですが舞台の一部。
以下、かもめマシーンのサイトから引用。
「かもめマシーンでは、2022年から、「南京プロジェクト」として、南京大虐殺を題材とした作品創作のためのリサーチを実施。これまでに、留学生に対するリサーチ、台湾でのワークショップ、沖縄、イギリスでの滞在制作、そして、横浜での参加型パフォーマンスなどを実施してきました。長期的なリサーチプロセスを経て、南京事件を「日本人の問題」として考えるこのプロジェクト。2025年12月には、パフォーマンス作品としての上演を予定している。」
この、12月に予定されていたパフォーマンス作品を観てきた形になります。

山本浩貴(いぬのせなか座)さんの投稿がけっこう私の感じたことと近い感じになっていて、自分で言葉を紡げるだろうかと不安なのですが、以下感想です。
舞台は、ラジオを聴く妊婦(と思われる)女性がロッキングチェアで揺れているところから始まります。ラジオからは北海道から順に全国の天気が流れていく。時折不穏に電波が途切れたりする。そこに、黒電話が鳴る。男性がもう一人出てきて電話を切る。二回ほど、電話は切られていたと思います。それから、ついに電話が取られる。電話からは、様々な記録からの引用が聞こえてきます。たとえば村山談話。これは男性も暗誦します。そして、南京大虐殺を生き残った方の証言。当時の日本兵からの証言。国として南京大虐殺をどう受け止めているのかという質問に対する国の回答。女性と男性にはセリフが与えられません(という言い方をしてもよいか悩むのですが)。二人は、引用しか口にしません。特に、吉田恭大『光と私語』からの「あれが山、あの光るのはたぶん川、地図は開いたまま眠ろうか」という歌が印象的に何度も引用されます。そういえば、女性が椅子に座って読んでいた本も地図帳でした。そして、二人はお茶を淹れ、煎餅を食べます。それを何度も繰り返します。劇中で劇的(という言葉が表すように、劇とは劇的なものとされることがある)なことは何一つ起こりません。ただ、終盤、南京大虐殺を生き残った方の証言が、「あなた」という二人称で書き換えられ、「なぜあなたはわたしたちに殺されなければならなかったのでしょう?」と締められます。ここで初めて、南京大虐殺は「あなた」と「わたし」の問題になる。そうして、静かな時間が終わります。
あえて不確実な部分が宙づりにされ、受け手がいろいろと類推せざるを得ないつくりになっています。おそらく舞台上のふたりは日本人で間違いない。しかし、舞台は日本なのか(おそらく日本のラジオの電波が拾える場所ではあるが)、ここは一体どこでいつなのか、そういったことは全く明かされることがありません(しかし確実に「戦後」ではあるでしょう)。さらに、なぜ女性は妊娠していなければならなかったのか、という点についても私は答えを出せずにいます。正直、ここが一番気になりました。この二人が夫婦の関係にあるのかということも私には確信が持てません。これは極端な例で、私がそういう見方をする作法を身に付けているからではあると思うのですが、とにかく確かなことは、南京大虐殺の被害者が「あなた」で、わたしたちは「わたしたち」であるということのみ。おそらく一般的な読みとしては、「現代より少し過去の時代、しかし南京大虐殺はたしかに行われそれから時が経っている、そんな時期にたまたま日本で生まれ育ち夫婦となった日本人たちが、南京大虐殺にまつわる証言や記憶を聴き、繰り返して発音している」ということになるとは思います。しかし、私にはそこにすら確信が持てなかった。そうであるとして、そこにどのような意図が込められているのか深堀りするのが怖いのかもしれません。あらゆる手をつくして誤読に導かれている、と思いました。多様な解釈に開かれた作品は、ときに解釈自体を拒絶します。
そうした中で、小道具として黒電話が使われたのは印象的だと思いました。黒電話というのはどこか、時間を超越するもののように私には感じられます。それに、電話ごしに聞こえる相手の姿は見えることがない。ただ、声が、機械音声の無機質さまでには届かないけれど、感情のこもっていない淡々とした声。それは、証言や語られた記憶というものを、今に掴み直すための試みだったのかもしれません。語りの召喚と、その効果の発動。舞台上の人物たちが行っている行為は魔術的行為であったように思います。そして、呪文は改変されることによって効果を変化させる。つまり、過去を現在に、わたしたちに再接続することによって。
ただ、あくまで私はこの上演が二部構成であったことに意味があると思っています。第一部を観ただけではこのプロジェクトを消化しきることはできないのではないか。もちろん、第二部の座談会は都度参加者が入れ替わるでしょうし、そこで交わされる会話も変化するでしょう。しかし、この作品は、その後参加者同士が「話す」という行為を通じてでしか完成しえない。いえ、そのように手続きがなされたとしても尚完成しないものだと思わされました。あくまで「話す」ことは何かの中継地点であって、この作品はそれを観た人の中で死ぬまで上演され続けてしまう。その良し悪しには立ち入りません。しかし、「南京プロジェクト」というソフトを正常に(あえてこの言葉を使います)インストールするには、この二部構成であることが必須だったのだろうという予感があります。
総じてぼんやりとした感想になってしまい恐縮なのですが、私はこの上演パフォーマンスを、そのように解釈しました。ちなみに私はvol.1〜vol.5は観ていません。そのうえでの印象であることはご承知おきください。
最後に、同じゲネプロに参加されていた方の投稿が流れてきて、「友人を誘ったら興味がない、今私が観なければいけない理由がわからない、なんか怖い」といった理由で観賞を断られたというエピソードがあり、けっこう衝撃を受けました。そうしたことを直接的にやりとりできる関係も素敵だと思いますが、自分の人間関係を振り返った際に、まずそういう断られ方はしないだろうなと思いました。これが、今の日本でどれほど特異な人間関係なのかということを忘れずにいたいと思います。そういうことがある以上、やはり悲しいけどこの上演パフォーマンスはある部分で上演されることの意味を一層有してしまうのだ、と感じました。

『落下の王国』観賞

落下の王国を観てきました。↑でいっぱい文章を書いて疲れたので手短に。私はとても好きでした。しかし、(私の)周囲ではあまり評判が良くない理由もよくわかりました。
私は子どもというものをけっこう大人扱いしてしまっているのかもしれないなと思いました(例えばロイがアレクサンドリアを利用して自殺をしようと試みることや、レオンがマチルダと懇意になることなどに対して、他の人よりも反応が鈍い気がします。虐待されていたからかもしれないと言ってしまうとどうしようもないのですが、守るべき対象というより一人の自立した人間として見てしまうので、その選択を尊重してしまう、そこに権力勾配が濃厚に存在していようが、それはそういうものだと思ってしまう。これは、けっこう私のなかでクリティカルな問題な気がしていて、だからこの作品は良くないと言い切ってしまうことができませんでした。それは、やはり私が子どもを子ども扱いできていないということなのだろうと思います)
もちろん現実世界において起こるべきことではないのですが、そうした出来事を描いた作品というものに対して、そうした作品が存在すること自体をありがたく思ってしまう、作中でそうした出来事が描かれているからといって直ちにその作品に批判的な目線を向けることができない……そういったことを主に考えました。
私はそもそも、病んだ成人男性と少女という組み合わせに脆弱性があるので、今回タイムラインで見かけた「落下の王国微妙だった」という声とその理由(子役の撮影での扱いや、作品の構造自体の問題、脚本への批判など)について、例えば「病んだ男性が少女に救われる話」などの枠組みなどを無意識に自分の作品にも盛り込んでしまう可能性があるので、気をつけなければなと感じました。でも、観れて良かった作品だと思います。

サーデク・ヘダーヤト『盲目の梟』読書会

新高円寺にて開催された、サーデク・ヘダーヤト『盲目の梟』読書会に参加してきました。元々イラン文学は、アッタール『鳥の言葉』を読んで興味を持っていて、『盲目の梟』もタイトルが鳥というだけで購入して積んでいた本でした。良い機会なので読みました。なかなかの盛況で、満員。1時間強、中村菜穂先生と藤元優子先生からの解説を聞きました。時代背景や物語の構成など。大変興味深かったです。その後休憩があり、ドリンクはザクロジュースかイラン産の紅茶か、コーヒーを選ぶことができました。ザクロジュースと迷いましたが、紅茶を選びました。皆さんがザクロジュースを飲んでいるのをいいなーと思いながら紅茶を待っていたら、なんと紅茶には薔薇のお砂糖がついてきて、それがとても美しかったです。紅茶は、お砂糖がとてもよく合う味でした。イランではそういう飲み方(砂糖と一緒に)が主流らしく、美味しかったので嬉しかったです。会は長引いて、17時半にようやく終了。私も質問しました。言文一致と、翻訳文でオノマトペになっていたり、べらんめえ口調になっている箇所は原文ではどうなっているのかということについて。あと、シラーズという都市はイランでどういう立ち位置の都市なのかも聞いてみました。カーレン・ブリクセン「水くぐる人」の舞台もシラーズだったので気になっていたのでした。テヘランを東京とすると、シラーズは奈良とのこと。分かりやすくて助かりました。