幽玄の惑星(試し読み)
花の群生地だった。佐渡某所、遠くからたぁ、たぁ、と鳥の鳴き声が聴こえる。奥には巨大な曲がり松が浩々と聳え、突き抜ける空を一身に抱きとめている。手ごろな岩があり、男はしばし休憩と腰を落ち着けた。道に迷った。なぜか地図アプリが起動しない。
「もし」
そこに声。見ると松の下に老人がいる。男は驚いた。先ほどまで人影など見えなかったはずだ。
「あなたはここの人ですか」
「いかにも」
「道に迷ってしまったのです」
「其方も流刑か」
返答に詰まる。流刑、とはどういうことか。佐渡が流刑地であったのは何百年も前のことである。
「失礼ですが貴方は」
「世阿弥と称されている」
世阿弥。確かに世阿弥は佐渡に流刑されたと聞く。理由は未だ判然としていない。しかし今は令和の世、呆けているのだろうかと男は首をかしげる。そこに凛とした声が発された。
「夢幻能、朱鷺」
目の前の老人からとは思えないほど瑞々しい声だった。木々が居住まいを正すのがわかる。風は止み、岩は男の熱をひたと冷ましていった。舞台が整っていく。老人が、背筋を伸ばして佇んだ。
「われこそは、大和猿楽結崎座が世阿弥。父、観阿弥とともに猿楽を極め、幾多の書を後世に残した。義満殿の寵愛を受け、世に幽玄を、花の美しさを伝え候。未だ流刑の意図は計りかねるも、ただ私が、われらの猿楽が幕府にとって差し障りとなったとみる。されど猿楽の偉大さはさほども損なわれず」
そうして老人は、男にこれまでのことを語り始める。
流刑を受け、失意のなか世阿弥は佐渡の山奥にひっそりと暮らしていた。誰にも邪魔されず、自らの幽玄の美を追い求め続ける日々。舞うことは水の流れを絶やさぬが如し、舞を枯らすことは生きながらにして死に絶えるも同然であった。世阿弥は山奥の屋敷に舞台をつくらせた。毎日、そこで舞った。嵐の日も、雪の日も、世阿弥はただ、舞い続けた。
そうした日々が幾年と過ぎ去っていった。世阿弥の芸はもはや完熟したかのように思われた。あとはただ散りゆくのみ。あれを見るまでは。そう、忘れもしない、音の消えた冬の朝のことだった。
一羽の朱鷺が舞台に降りた。そして、静かに雪の上に花を咲かせた。朱鷺は、脚をたたんと軽やかに踏み、羽を広げ、扇のように振り回し、かと思えばゆっくりとその場に佇んだ。序破急を極めている。世阿弥は目を見開いた。朱鷺が、一羽の鳥が猿楽を完全に理解しているではないか。いつぶりかわからぬほどに心を打たれ、世阿弥はただその朱鷺に見惚れた。
朱鷺の目を見ればわかった。かのとりは、世阿弥の動きを真似たがっている。
それから世阿弥は朱鷺に稽古をつけた。猿のように真っ赤な貌を見ていると、朱鷺はひた面で舞うこと、面をつけずに舞うことが最も似つかわしいように思えた。ましてやあの薄紅に染まった羽の美しさである。世阿弥からすると、まさに青天の霹靂だった。鳥に、しかも朱鷺に幽玄がわかるものかと思い込んでいた。鳥のなかでも朱鷺といえば、てんで歌に詠まれることもない。当時はただそこにいるだけの、田を荒らすだけの害ある鳥でしかないと思われていた。紅い脚は足の運びを優美に魅せた。黒く伸び、軽く反り曲がった嘴は目ほどに物を訴えた。
その朱鷺だけではなかった。次第に、世阿弥の元に朱鷺が複数集まってきた。朱鷺たちは初めの朱鷺に動きを教わったと見え、世阿弥の前で一斉に舞った。流刑に遭った瞬間、真の猿楽を伝承する術は絶たれたかに思われた。世阿弥は、朱鷺に救いを見出した。そう、何も芸を継ぐものは人でなくてもよい。
(続く…)
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