鴉幀日誌(試し読み)
湯から引き上げたそれはてらてらと黒光りして、艶のある羽根は簡単に手で抜くことができる。その物体に命はない。しかし、それを形づくるすべての構成物に魂が宿っている。天野莉々は一度その物体の前で手を合わせたのち、カラスの死骸から一本一本そっと羽根を解いていった。この瞬間はいつも緊張する。一本ずつ羽根を抜き取り、水気を切って開いていく。漆黒の中に複雑な色彩を湛えた唯一無二の羽根が、一枚、また一枚と机の上に花開いた。美しい死体だと思う。片翼を広げて濡れた羽根を仕分けていくこの作業が莉々は大好きだった。初列風切羽根を一本ずつ並べていく。それらは夜の海のように静かで、莉々はこの羽根とともに夜明けを待ちわびる。そっと羽根の先を撫でると、ちりちりと星が弾け、辺りに神聖な空気が充満した。
鴉製図書。カラスの死骸からつくられる本をそう呼ぶ。鴉製図書のいわれは紀元前にまで遡った。古代イスラエルの王、ソロモンは動物と会話できたとされるが、ソロモンがカラスととある契約を交わしたことで、この珍奇な書物はこの世界に具現化したとされている。曰く、カラスに最適な環境を与えること、カラスを決して害さないこと、カラスを人類の管理下に置かないことを条件に、カラスは死後人類にカラスの知恵を提供する、と。そうして人類はカラスを幸福にする見返りとして、カラスの死後、その肉体から書物をつくる術を得た。そういうことであるから、カラスと会話できる人類が時折現れるのもそのためである、と。それは単なる作り話だと思われてきた。数百年前、鴉製図書の実物が発見されるその時までは。十六世紀イタリア、古い教会で見つかった隠し部屋から、数十点の鴉製図書とその製造工程を示した書が発見される。イタリアは各国からの勧告に応じてその詳細を全世界に公開したが、その条件として全世界に中立を保つ独立した機構を設立することを提示した。それが、現在の鴉製図書管理機構であり、いまや軍事力すらも有した一大権力と化している。
天野莉々は鴉製図書管理機構日本支部に所属する新米の鴉製図書管理官だ。研究棟には莉々専用の工房があり、彼女はそこで一日中「本」をつくる。新人にしては出来の良いものをつくると彼女の本は評判であったが、彼女自身はその出来に満足していない。
開いた羽根を手に取り、紙に向かう。インクを補充せずともカラスの羽根からは自動で文字がこぼれ落ちる。まるで鳥の嘴や足跡を想起させるような独特な筆致を特徴とする鴉製文字で書かれた書物は、それ単体では解読することができない。鴉製文字は未だ人類の手の届かない場所に存在する、高度に情報が圧縮された高次の法則を持つ文字であった。莉々が手に持つ羽根から、紙に鴉製文字がするすると流れ込んでいき、そのかわりに羽根の黒色は次第に脱色されて白くなってゆく。そうして羽根から紙へ文字を写していき、本を完成させるのだ。小さな羽根については特殊な溶液に浸した櫛で梳いて文字をこそぎ落としてゆく。こぼれ落ちた文字たちは蜘蛛の子のように自動的に蠢いて書物のあるべき場所へと収まっていった。表紙にはカラスの皮をなめして使う。この行程では管理官の好みを反映させても良いこととされており、莉々はいつも深い緑色に染めた皮を張ることが多い。
「うーん、これもB級か」
莉々は大きく伸びをして、背後にいる生きたカラスに問いかける。
「なんかスランプっていうか、いまいち伸び悩んでるよね」
「そうか? 鼻歌まじりで楽しそうにつくっていたがな」
莉々の相棒、カラスのクロウリーは立派な嘴を持つハシブトガラスだ。幼少期からカラスの言葉を理解できた莉々は、当然のように鴉製図書管理機構を進路に選んだ。もともと本をつくるという作業に黙々と従事することが性に合っていた。莉々は機構のゆくすえにさして興味はなく、官僚主義的な機構の体質にやや閉塞感は感じるものの、どこか自分とは関係のない物事であるかのように捉えているところがあった。本さえ作れればそれでいい、というわけである。
養成所を経てつい数カ月前、ここに配属されたばかりである。管理官は基本的に一羽のカラスを相棒として任務にあたる。これは、カラスと人間との間に深い絆があればあるほど鴉製図書の質が高まるという理由からである。管理官の任務の第一は、カラスたちを幸福にすることであった。そのためには特定のカラスとの密な交流が望まれたし、実際に管理官のバディを務めたカラスからつくられる鴉製図書はS級品と評されることが多かった。莉々は現在B級管理官であったが、これはB級鴉製図書を安定して製造することが可能であるという証明であり、新米の多くがC級からスタートするなか、その製本能力は飛び抜けて高いといえる。
「ほら、クロ手伝って」
クロウリーが莉々のもとに降り立ち、完成したばかりの鴉製図書に向き直る。そして、嘴でその表紙をするりと撫で回した。これで封が完成する。
「ありがと、ちょっと休憩するか。できたてのこれ、誰かに見せたいし」
莉々が工房をあとにすると、クロウリーもばさばさと後に続いた。古い建物だが設備だけは最新だ。廊下を歩いているとみしみしと木がしなる音がして、莉々はこれが嫌いではなかった。向こうから同僚がやってきて「榎谷さんが呼んでたよ」と声をかけてくる。
「ありがとう、行ってくる!」
「小言か?」
クロウリーが莉々の肩に止まる。
「まさか、心当たりないよ」
「いまいち何を考えているかわからん男だ、あれは」
「クロはあの手の人、そんなに得意じゃなさそうだよね」
「まあいい、俺は黙っておく」
大きな木製の扉に繊細な彫刻が施されている。莉々の上司の部屋だったが、莉々はいつもここに来ると緊張する。S級鴉製図書管理官、榎谷幾多。異例の若さで幹部へとのし上がり、その腕の確かさは機構始まって以来の天才と称されるほどだ。どこの組織にもある派閥争いからも一線を引き、多くの管理官からは何を考えているのかわからない謎多き人物として解されている。莉々が当初榎谷のもとへと配属されたときも、莉々にはその意図を図りかねた。榎谷が部下をとること自体初めてであったから、今もそれは謎のままである。
「よく来たね」
榎谷は莉々が来たのを確認すると振り向いた。景色を眺めていたらしい。管理棟の最上階に位置する榎谷の部屋からは、晴れた日には富士山まで見渡すことができた。榎谷の相棒、ワタリガラスのクレマチスがぐるると喉を鳴らしたのち、莉々とクロウリーを一瞥した。その後、関心を失ったのかそっぽを向いて毛繕いをし始める。
「なんだ感じ悪いぜあいつ」
クロウリーが小声で囁く。
「今日呼んだのはほかでもない、君にしかできない任務を頼みたくてね」
榎谷は細淵の眼鏡の位置を右手で直すと、莉々に腰掛けるよう促した。榎谷は常に柔和な笑みを崩さない。華奢な体つきも相まって世間擦れしていないような印象を受け、「儚げだ」「天使がいるならああした姿だ」等、莉々の同僚からの人気は高かった。莉々はそれに乗ることができない。どうにも榎谷が胡散臭くて仕方がなく見えるときがある。
「野良……鴉製図書?」
莉々は手渡された資料を二度見した。そんな、ありえない。鴉製図書の製造には非常に繊細な技術と品質管理が求められる。それに鴉製図書の製造工程は最重要機密事項である。鴉製図書は、すべて機構のもとに管理されなければならなかった。何より莉々が許せなかったのは、それが粗悪品であることがわかりきっていたからだ。機構の設備を経ずにつくられた鴉製図書などたかがしれているだろう。それは莉々にとっては、カラスたちに対する愚弄であるとしか思えなかった。しかし、
「なぜ私なのでしょうか?」
「天野さん、ここ最近ずっと工房に詰めてるでしょ。たまには息抜きが必要だと思って」
余計なお世話だった。莉々は一刻も早くA級に昇任したいのであり、それには実践が最重要だと考えていた。鴉製図書製造から退いて粗悪品を取り締まるなど、莉々には時間の無駄であるとしか思えない。莉々はもどかしい。自らの手で、あんなに美しい生き物たちを最大限に弔ってやれないことが。莉々にとっては上質な鴉製図書を製造することこそがカラスたちへの最大級の弔いなのであり、礼儀、そして愛なのであった。
「詳しいことは、ここ行けばわかるから」
そう言って指されたのは聞いたこともない山の奥。登山装備は必須であろう。もちろん機構から予算は下りるはずだが、それにしても莉々に登山の経験は皆無であった。
「これはね、君が考えているよりもずっと重要な任務だよ。心して取り組むように」
窓からのすきま風が榎谷のふわふわとした黒髪を舞い上げた。柔らかい日光が陰をつくり、榎谷の真意は汲み取れない。莉々は何か言いかけたが、口をつぐんでしまう。
「さっそく明日から出てくれ。なに、ちょっと旅行するとでも思ってさ」
ぱたん、と目の前のドアが閉じられる。廊下に残された莉々は困惑したようにクロウリーと顔を見合わせる。
「ああそうそう」
再びドアがぱたんと開かれる。
「君がこの任務にあたることは、誰にも言ってはいけないよ」
(続く…)
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