砂に刻まれるものたちへ(試し読み)

Works小説,星々

 黒い大地が一本の線を成して空の遠さを繋ぎ止めている。見渡す限り人の影はなく、私たちは途方に暮れる。いや、天を仰いでいるのは私だけか。現地で雇ったドライバーは、年代物のウォークマンから流れる陽気な音楽に身を浸し、遠くを見つめながら小刻みに揺れている。ちらりと様子を伺うと、彼は片手を挙げてにこやかに応じた。とても現状に危機感を覚えているとは思えない笑顔だ。開けっ放しのコーラ瓶から甘ったるい匂いが漏れてきて、私はため息を吐く。現在の状況。車がガス欠を起こしたので、砂漠のど真ん中に放り出された。反省と対策。この土地の人々は、ガソリンを満タンにするという考えを持たないらしい。そもそもこの国では何もかもが高騰しているから、ドライバーは十分な量のガソリンを買えなかったのだろう。あれだけ念を押したのに。問題ない問題ない、と何度も言うものだから、信じた私が愚かだった。そもそも、私が出発時にガソリン代を上乗せして報酬を支払わなければならなかったのだ。後悔先に立たず。一時間に一台通るかどうかの自動車を待ちながら、ガソリンを分けてもらい先に進むしかない。少しずつでも、辛抱強く。先ほど出会った親切な夫婦によると、ここから三十分ほど進むことができれば私たちの目指す街に出るらしい。たかが三十分、されど三十分である。分けてもらったガソリンでは、十分も走れば再びへろへろと立ち止まってしまう。日は傾いてきて、急激に温度が下がってきた。覚悟はしていたものの、砂漠の気温変化の激しさが身に堪える。多めに積んだはずの水も尽きてきて、精神的な余裕はどんどん削られていった。
 それにしても、美しい土地だ。何もない。ここには、人の営みがない。黒い砂がどこまでも広がって、空には薄ぼんやりと半月が出ている。静寂が支配する。清々しく無風の大地。しばらくして、私はエンジンの音を認める。後方からだ。大きく手を振る。緑色のトラックが私たちの車の脇で停車して、中から中年の女性が出てきた。これから私たちの目指す街へ向かうところらしい。ガソリンを分けてくれないかと懇願すると、快く応じてくれた。女性は、この先の街のホテルに勤めているようだ。家族の急病で帰省していたが、休暇が終わるので街へ戻る途中だという。ホテルの名前を聞いて驚く、そこが私の旅の目的地であったからだ。女性は目を横に伸ばしてにかりと笑い、「これも何かの縁ね」と多めにガソリンを注いでくれた。
 トラックと並走して街を目指す。ぎりぎりであったが無事に市街地へと入ることができた。ガソリンスタンドを見つけ道を折れる前に、手前のトラックに向けてドライバーがクラクションを二、三度鳴らした。トラックもビーと返事をして、夜の闇に消えていく。死ぬところだったと冷や汗をかきながら、私はドライバーにお礼とチップを渡し、目的のホテルへと急いだ。先ほど出会った女性が言伝まで引き受けてくれ、フロントにはすでに「地球の裏側から物好きがやってきたらしい」と伝わっていたと見え、私がロビーに到着するやいなやボーイが耳打ちをしにきた。
「リウヒさんはちょうど夕食をとられているところですよ」
 全身がカッと熱くなった。彼女がもうすぐそこにいる。取り憑かれたように文献を漁り、興味は尽きることなく、はるばる本人にまで会いに来てしまった。夢にまで見た邂逅が、すぐ目前に迫っていた。
 ミルヘ・リウヒ。間近で見た彼女は小さかった。しかし背筋はぴんと伸び、きびきびと動く。重心は右に傾いているが足取りはしっかりとしている。御年八十五になるはずだ。それでも彼女の顔つきは若々しく、持病の悪化を欠片たりとも感じさせなかった。左手がきらりと光った。大ぶりなエメラルドの指輪だった。私はレストランから出てきたミルヘの元へ走った。息が弾んで言葉が詰まる。辛うじて、貴方の研究に興味があること、はるばる貴方に会いにきたこと、これまでの話を聞かせてほしいこと、たどたどしいツェーリヒ語で伝えると「まあ、あなたツェーリヒ語が喋れるのね!」といたく感心するので、「ほんの少しだけ」と恐縮する。
「果ての人々はいつの間にこんなに大きくなったのかしら、小さな人々だと聞いていたわ」
 ミルヘがしげしげと私を眺めて手を取った。「ようこそハマカへ」
 時間をいただけないかという質問に「いつでも! 明日の昼も、明後日も、空いているわ」と快く頷かれ、私は全身が打ち痺れるようだった。明日の昼に約束を取り付ける。ついにミルヘの話が聞ける! と思うと緊張で目が冴えてしまう。長い一日だった。砂漠に取り残されたことが、遠い昔のように感じる。ようやくここまで来た。安堵して疲れが一気にやってきたのか、私はいつの間にか深い眠りに落ちていた。


                        (続く…)

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