飛び込んで、夏……

2023-09-02Works,公募かぐやSF,公募,小説

 発端は第99回鳥人間コンテストだった。当時わたしは東京万能大学飛行部の学生で、その日はわたしの人生で一番の大舞台となるはずだった。わたしはパイロットだった。仲間たちと力を合わせ作り上げた機体、その翼とともに天を翔ける権利を得た唯一の操縦者。その年の機体は随分と改良され、練習時の飛距離も良好だった。ともすれば大会新記録も狙えるのではないかと期待され、部内だけでなく数多くの卒業生たち、スポンサー企業の社員たちもざわついていた。わたしも、確かな手応えを感じていた。会場にあの、妙な中年男性が現れるまでは。
 ヘルメットを装着し、ぴったり一人分の空間に身を滑らせる。パライソ号ver.6.0.3から見る景色は格別だ。どこまでも深い藍に沈みしんと静まり返った琵琶湖と、その先に見える青く霞んだ山々。太陽光は激しくわたしたちを刺し続ける。まさにパライソ、楽園だった。楽園に住むという鳥、極楽鳥は一生枝に止まらず、風に乗って移動し続けると信じられていた。わたしたちの翼は、この極楽鳥から名を取られている。どこまでも風に乗って飛び続けるために。
 やがて良い風がやってきて、湖がさざ波立った。水面が太陽を反射して、辺りは銀色の光に包まれる。この瞬間のために生きてきた。わたしは極限まで集中力を高め、離陸の体制に入ろうとした。その時だ。視界の端を、何か黒いものが横切ったのは。
 はじめ、それは黒いミシュランマンに見えた。ぶよぶよの身体を持ったあのソフトクリームみたいなキャラクターだ。ミシュランマンはぶるんぶるんと左右に振れながら、呆気にとられるわたしたちを追い越して滑走路の先端まで駆けていった。会場には撮影用の機材と、その映像をリアルタイムで映す巨大モニターが設置されていて、カメラは突然の闖入者をその目で追い始めた。この時、わたしの運命は狂わされたのだ、カメラの視界がわたしから逸らされたあの瞬間から。わたしは目を凝らしたが、観客席付近のモニターで確認するまではミシュランマンの正体をはっきりとは認識できなかった。モニターにズームアップして映し出されたそれは、やはりというか何というか、人間ではあった。小太りの中年男性の姿だ。しかし、黒いのだ。全宇宙の星々がことごとく消滅したかのごとく、全身が真っ黒だ。さらに目を凝らすと、彼が服を着ていないことがわかった。彼は、全身を、可視光の吸収率99.995%を誇る塗料で塗りたくり、じっと目を閉じていた。ポーズも奇妙だった。左足を折り、前方にねじるように晒し、片足立ちで静止していた。会場中の全員が、この奇妙な闖入者をもてあました。彼があまりに堂々と滑走路に躍り出たものだから、それがさも当然であるかのような空気が一瞬で場を支配してしまったのだ。パライソ号を通して見る空の先に、人型の穴がぽっかりと開かれたように見えた。わたしの太陽に大きく染みをつくる黒点。わたしははっとして、彼を睨みつけた。誰かが早く、彼を追い払うのを期待した。研ぎ澄ました集中力が削がれていくのを感じ、わたしは焦っていた。
 しかし誰も動かない。むしろ、彼の姿に見惚れる者すらいたはずだ。彼の肉は波打っていて、脂肪は重力のままにうねうねとしなった。かと思えば男の筋肉に支えられた太ももはぴんと空中に形を保ち、また次の瞬間には腹肉が男の輪郭を絶えず更新した。人間の肉体美と、不自然な漆黒が融合してみせ、名状しがたい昂奮を人々に与えていた。
 しばらく滑走路の先端で風を感じていた中年男性だったが、次の瞬間、かっと目を見開くと、機敏な動きを見せた。
 脚を下ろし堂々たる仁王立ちになったのである。
 彼の股間を覆うビキニは、モルフォ蝶を思わせる幻惑的な色味を帯びていた。ターコイズブルーの生地の上を複雑な虹模様が光に合わせて踊り狂っていた。
 時が止まった。日光は燦々と彼のビキニを照らした。真っ黒な人型の中央に、はっと目を引く派手な青色がきらきらと輝いている。わたしもつい目を奪われた。
 糸が弛むように男が体勢を崩した。そのまま男は滑走路に寝そべり始めた。ビキニが肉の波に沈み、艶やかに組まれた足が人魚を思わせた。男は挑発するように腹の肉を震わせた。ここで奇妙なことが起こった。さっきまであんなに鮮やかだった青色が、どこにも見えなくなったのだ。再び男は闇の彫刻と化し、ひたと静止した。誰もが彼の動向に注目していた。風が男の皮膚を撫でる。太陽光を99.995%吸収する彼の身体は極限まで熱されている。男は暑さに負けじと目を見開いた。そして——組んでいた脚を颯爽とおっぴろげた。
 バン!
 再び青い虹が姿を表す。観客たちがどよめいた。灼熱の太陽が男を焦がし、その股間を燃えるほど明るく照らしだす。わたしは何かを思い出しかけていた。パライソ号の命名の元となった極楽鳥。それらのオスは、大掛かりで派手な求愛行動を行うため、カラフルな羽色やリボンのような装飾を持つことで知られている。その一種、カタカケフウチョウは、首の後ろに、光を吸収する真っ黒で巨大な飾り羽を持っており、求愛行動の際は半円状にそれを広げる。そうすることで、漆黒の穴の中に咲く胸元のメタリックブルーの羽を誇示するのだ。わたしは確信した。この男は、カタカケフウチョウに、完全になりきっている。
 これが本当の鳥人間コンテストだと言わんばかりに、男は立ち上がった。そして、ゆっくりと前屈みになる。男と目が合った。男の股間は腹の肉ですっぽりと隠されており、再び男の全身が漆黒の闇に包まれた。しばしそのまま時が流れた。パライソ号のなかで蒸されて頭が変になったのかもしれない。わたしはだんだん腹が立ってきた。なぜよりによってこの男はわたしの番で乱入してきたのか。このままわたしの晴れ舞台を奪われてなるものか。
 わたしはペダルを漕ぎ始めた。ガクンと機体が揺れた。一瞬遅れて、わたしが急発進したことに気づいた同期たちが驚いて目を見開いたのが見えた。もう遅い! わたしは飛ぶ。あの男を轢いてでも、空へ舞い上がってやる。どっちが本物の鳥かわからせてやる。
 わたしは男の方へ突っ込んでいった。男は驚いたように見えた。しかし、一瞬で真剣な表情に戻り、再び仁王立ちの体勢をとった。ババン! 股間がメタリックに輝く。黒と青のコントラストが、眩しい。負けてなるものか。わたしはさらにペダルを踏みこんだ。
 わたしに止まる気がないことに気づいたのか、男はやっとストップモーションを中断した。琵琶湖にせり出した細長い滑走路の上、パライソ号が猛然と男を捉える。飛べ、パライソ号、飛べ!  
 しかしここで男は驚くべき行動に出る。どうやっても避けられないことを悟ったからか、彼は自ら滑走路の先へと足を踏み出した。そして、必死に腕をばたばたと動かし始めたのだ。
「嘘だろ? こいつ、飛ぶ気か⁉」
わたしが思わず叫んだのと同時に、男は舞い上がった。続いてパライソ号も、雲ひとつない空へぽかっと放り出された。

 漆黒の中年男性が宙を舞う。わたしたちの目の前を飛んでいる。男の腕から羽が生えたのが見えた。光を99.995%吸収する真っ黒な羽だ。やがて、男は少しだけ半身を傾け進行方向を変え、自身の身体をパライソ号の横につけた。
 男は信じられないといった表情を浮かべていた。
「なんで飛んでるの?」
 男が言った。わたしにわかるわけがないだろう。わたしは心地良い風に撫でられながら懸命にペダルを漕いだ。男も、必死に腕をばたつかせていた。黒い身体に、鮮やかなブルーのビキニが煌めいていた。わたしと男は、そうして風に乗った。少し前までは轢き殺しても構わないと思っていたのに、今ではこの男とならどこまでも飛んで行けそうな気さえした。
 二十世紀半ばまで、人類は一マイルを四分以内に走り切ることを不可能だと考えていた。しかし一九五四年、ロジャー・バニスターがそれに挑み、一マイルを三分五十九秒四で駆け抜けた。不可能が可能となった瞬間である。ところが、この記録はたったの七週間で更新された。しかもその後一年以内に、二十三人ものランナーが一マイル四分の壁を次々と破ったのである。このことから、「不可能だという思い込みが壁となり、可能だという思い込みは人類の限界を押し広げる」という説が広まった。これが、ロジャー・バニスター効果である。男は、カタカケフウチョウになりきるあまり、迫りくる機体から本気で飛んで逃げようとした。その咄嗟の行動が、人類に眠っていた未知の能力を爆発的に開花させたのである。
 男が空を翔けたその後、一週間と経たずしてある少女から羽が生えてきた。ある男はハクセキレイのように尻尾を上下させ、ある老婆はダチョウの如く強靭な脚力を得た。人々が、鳥になり始めた。鳥ができるなら他もできるだろう、ということになり、人類は次第に何にでも変身していった。爆発的な変化だった。
 その後鳥人間コンテストがどうなったかは知っての通りだ。大会は継続されている。どころか、様々な◯◯人間コンテストが次々と催され、人類のメタモルフォーゼスポーツ文化は栄華を極めきっている。しかし、従来の「鳥人間」が消えたわけではない。わたしは大会新記録を保持したまま人力プロペラ機部門を引退したが、まだまだ人類は、人間であるまま鳥になることをも、変わらず目指し続けている。
 そうそう、今のわたしはというと、鳥人間コンテストに新設された「求愛部門」の選手になった。万年首位を誇る、カタカケフウチョウの男を打倒せんと、今年は発声訓練に特に力を入れている。わたしが発現させた変態は、もちろん極楽鳥だ。フキナガシフウチョウ。黒と黄色の派手な体毛に、頭部からは二本の長いエナメルブルーの吹き流しが生えている。変幻自在に動かせるこの吹き流しで、今日こそあの男を撫でてやる。