ウェイト=スミス版タロットとノンバイナリー

2023-08-02Diary,タロットタロット

 タロットリーディングにまつわる、とある講座を受講している。その講座では、同じ講座を受講している生徒のSNSアカウントが(任意で)記された名簿が共有されていて、私もそれを頼り、同じ講座を受けている方をSNSで見つけてフォローした。そうしてしばらく経ったとき、その方から「その講座での話だろうな」と考えられるとある出来事について言及するツイートがあり、私も他人事ではないので考え込んでしまった。正直まだ結論が出ていない。コメントがほしいと思ってこの記事を書いている。

 その方のツイートは、引用はしないが概ねこうした趣旨だった。
占い師がユングの『元型』を言い訳にノンバイナリーのアイデンティティを軽く見るような発言をしており許せず、あるひとを排除するのは『占い』そのものではなくて誰かを排除したままの『占い』で満足できる人たちだと感じた
 私も同じ講座を受けていて心当たりがあったので、もしかしてと講座のアーカイブ動画を再生してみた。該当部分と考えられる箇所では、講師はこのような趣旨の発言をしていた。
このタロットデッキは100年以上前の、当時の価値観で描かれている。カードの中の出来事や人物は心理学のユングでいうところの『元型』であるという説があり、人間の意識や無意識のさらに下層にある集合的無意識を目に見える形にしたもの。19世紀の人々の価値観で『元型』を描くとこうなるのか、と読んでほしい。性別がはっきりしているカードもあるがその通りに読む必要はまったくない。読めるようになるために一度線引きしていただければ
 どうだろうか。私自身は、最初はこの発言に違和感を覚えなかった。そういうものだと諦めていたとも言える。しかし、先に挙げたツイートによって「ユングの『元型』という概念を無批判にタロットリーディングへ援用することには問題があるし、また『性別がはっきりしているカードもある』という発言一つでも、ノンバイナリーの人々が排除されることになりうる」と大変勉強になった。配慮したつもりでも、そこから溢れてしまう人たちが出てくる。こうした反省と行動修正の繰り返しだと感じた。

※しかし、当該ツイートが本当にこの講座について寄せられたものであるかは当然定かではない。ツイート内で名指された「占い師」が講座の講師でない可能性も大いにある。当該ツイートと受講中の講座における講師の発言とを繋げたのは私の陰謀論的ともいえる憶測から来ている連想だし、だからこそどちらの名前も出さないが、仮にそうだったとしたらという前提で以下の文章を書いていることをご了承願いたい。少なくとも私にとっては両者の出来事がこの問題について考えるきっかけとなった。

 ちなみに講座で用いられているタロットデッキは「ウェイト=スミス版」と呼ばれるもので、大アルカナは下記画像のような絵柄になっている(複数の絵柄が存在するタロットカードの中でウェイト=スミス版が選ばれるのは珍しいことではなく、タロットカードに入門する際はまずこのデッキが使用されることが多い。私はタロットカードにまつわる本を7冊持っているが、そのほぼ全てでこのデッキを標準として各カードの解説が掲載されている。例外として片岡れいこ、吉田ルナ『4大デッキで紐解く タロットリーディング事典』といった、マルセイユ版、ゴールデン・ドーン版、ライダーウェイト版、トート版を同時に扱った書籍もある)。

 タロットリーディングを勉強していくにあたって、「大アルカナが人生の旅を象徴したものであること、『元型』を象徴的に描いたものであること」だという主張は多くの本で目にするものであり、いわばタロットリーディングにおける「常識」とされてしまっている。たとえば「恋人」のカードには全裸の男女(と考えられる人物)が並んでいて「天使は、このカードに描かれた男女間の絆を祝福している(ジョアン・バニング著/伊泉龍一訳『【ラーニング・ザ・タロット】タロットマスターになるための18のレッスン』)」と書かれていたり、「女司祭」と「女帝」については「タロットの中で女性性を表す元型は、この『女司祭』と次の『女帝』のカードのふたつに分け持たれています。形のある確かなものを重んじる男性文化に対して、『女司祭』のカードは、女性性に象徴される神秘的で不可知の世界を表しています。一方で、『女帝』のカードは、人生という厳しい試練の場において求められる、女性性のもうひとつの側面が象徴する大事な役割を表しています(同著)」といった説明が本のなかでなされたりする(一方でそうした解釈から距離を取ろうとするように「THE HANGED MAN(吊るされた男)」が「吊るし人」と訳されている例が、私の持っている書籍の中に一例だけあった)。私の中にもこれらの解釈への苦手意識があり、特に、リーディング中「女司祭」「女帝」「皇帝」が出たときは正直「嫌だな」「解釈しづらいな」と感じることが多い。「塔」や「死」といった、一般的に敬遠されがちなカードよりもそうしたカードが出てくるときのほうが嫌だ(個人的にはもう「恋人」にまでなってくると、性愛といった要素よりも「コミュニケーション」「結びつき」といったイメージが先にやってくるので難儀していない、しかし「恋人」のカードに抵抗感がある人もかなりの数にのぼるだろうと感じている)。
 それで、ではタロットリーディングにおいて、誰もを排除しない読みとはいかにして可能になるのかということを最近はよく考えている。

 一つの選択肢として、「そもそも『ウェイト=スミス版』を使わない」という選択肢がある。上記の写真は私が持っているもう一つのデッキ、MJ Cullinane氏制作の「CROW TAROT」だが、このカードは「ウェイト=スミス版」を基礎としつつも、すべての人物がカラスとして描かれている。そのため、余計な情報を削ぎ落としてリーディングに専念することが可能である。たとえば、ウェイト=スミス版の「女帝」と「皇帝」、CROW TAROTのそれらを並べてみると一目瞭然である(しかし、CROW TAROTの解説文書において「THE EMPRESS」の項では代名詞にsheが使われ、「THE EMPEROR」の項ではheが使われている点には留意しなければならない。こうした点で、人間が描かれてはいないとはいえ完全にそうしたしがらみから自由になれているわけではない)。

https://www.light-works.jp/view/item/000000001240

 また、たとえばアリ・ウィスナー「トランジェントライトタロット」のように、端から「タロットはジェンダーやアイデンティティ、セクシャリティ、民族性、体形、信念体系といったことに関係なく、すべての人のもの」という信念で作られたタロットデッキもある(画像はリンク元から引用)。このデッキの場合は、ウェイト=スミス版よりももっと図像が抽象化されており、確かにジェンダーやアイデンティティ等にかかわらず誰もがリーディングを楽しめるようなデザインになっていると感じられる。

 しかし一方で、現在タロットリーディングの学習を始める際に「ウェイト=スミス版」タロットの解釈を避けて通るということは、現実的に非常に難しいと感じる。入門用の本や、巷で出版されている書籍はほとんどが「ウェイト=スミス版」についてのものなのだ。「ウェイト=スミス版」タロットを用いつつも、誰もを排除しない読みを成立させるにはどうすれば良いのか。絵というのはパワーがある。どうしても読み手は絵の力に引っ張られてしまうように感じる。やはり「学習時には一旦ウェイト=スミス版を使用して、ある程度基礎を理解したら好きなデッキを使う」という妥協案しかないのだろうか。
 あるいは、注釈に注釈を重ねること、ジェンダーやアイデンティティにまつわる文言を各カードの解釈から削ぎ落としていくことに可能性を見出すことはできないだろうか。「女司祭」は彼女ではない。それは「女司祭」でしかなく、「女帝」は「女帝」でしかない(そもそもこの人たちは「女司祭」、「女帝」といった名前であるべきか? もっとそれらに相応しい名前を用意できるのではないか?)。今のところは「BJの間の人」とか「ゆったり座ってる人」とかで暫定的に呼んであげることにする? それとも、新しく愛称をつけてあげる? TORAの書を持つ「トラ様」とか、ザクロの服着た「ザクロさん」とか(性自認が人以外の方もいると思うが、そこまで絵柄から離れすぎると収集つかないような気がする。これも排除の一つになってしまうが、ウェイト=スミス版の限界はそこではないかと私は感じている)。少しずつウェイト=スミス版の絵柄に描かれた人物を、固定観念から解き放っていく、その運動がどのようにリーディングに影響をもたらすのかに私も興味がある。私には暫定的に、こうした「個人でできること」くらいしか思いつかないのだが、もし他にもこのような方法がある、といった提案があればぜひとも聞いてみたい。ちなみに私の性自認はこれです。

 自分のことはこのような形だと思っており、たとえば小説家デビューしても著者近影は「これ」なので生身の肉体を写真に撮られたくないし、今の肉体は仕方なく与えられているものだと思っている。自分のことを女性だとも男性だとも思えず、しかしノンバイナリーという居場所に私なんかが入ってもいいものか、それすらはっきりさせられずにふよふよと彷徨っている。よくわからないというのが一番近い。そんな人間として書いていくしかないし、占いだってそこから始めなくちゃいけないよな、と今回の件で改めて気付かされた。
 占いというのは油断すると固定観念がするりと入り込んでくるものだし、実際にそうしたことが「知恵」として積み上げられてきてしまっているから、それを参照しつつもどのように距離を取るか、何をそこから新しく積み上げていけるのか、私は本職の占い師でもないけど、そうしたことを引き受けてこれからもリーディングしていきたい、とここに改めて決意表明を行っておく。