佐原雄二『幻像のアオサギが飛ぶよ 日本人・西欧人と鷺』感想

2023-05-08DiaryC3045,書籍感想

佐原雄二『幻像のアオサギが飛ぶよ 日本人・西欧人と鷺』(花伝社)

https://www.kadensha.net/book/b10033064.html

読み始め:2023/5/8  読み終わり:2023/5/8

あらすじ・概要
なぜアオサギは不気味になったのか?
「孤独、孤高、精悍なアオサギ」のヨーロッパ。
「火を吐く妖怪、不気味で憂鬱なアオサギ」の日本。
なぜアオサギのイメージは日本と西欧で全く異なるのか?
サギの生態に魅せられたサギ博士が、古今東西の文学を渉猟して、サギ像分裂の背景を探り、人間と動物の関わりに思いを馳せる。

読んだきっかけ
小説にアオサギを出したかった。鳥と人間のかかわりについての本はいつでも募集している。

コメント・感想
 著者のサギへの溢れる愛がほとばしる文章だった。非常に素朴な感想だが、私は理系の人が文系のものごとを語っているのを読むのが好きなようだ。たとえば岡潔のエッセイだとか(あれが文系かと言われるとまた違う話になるかもしれないけど)。アオサギのイメージが西欧(ここでは主にイギリスとフランス、ちょっとだけドイツ)と日本でなぜ異なるのかを文献から紐解いている。イギリスやフランスでは、アオサギは「孤独、孤高、精悍」であるというイメージがついている。対して日本では、シラサギ類と比較してアオサギは「光を発する妖怪、不気味で憂鬱」といったイメージがつけられている。古代日本ではアオサギが穀霊とされていたことから、江戸時代には妖怪のイメージがつけられ、それを引き継いで近代では「憂鬱、不気味」といった印象が残ったのではないか、とする考察は興味深い。
 個人的には、萩原朔太郎の詩にはアオサギがほとんど登場しないにもかかわらず、自身の詩を「青鷺の聲」に例えているという話が面白かった。確かに、萩原朔太郎の詩は全体的にアオサギっぽい。
 本書では、ジュール・ミシュレについて何度か取り上げられるのだが、ちょうど数日前に装幀に一目惚れして買った本がジュール・ミシュレの『博物誌 鳥』だったので、シンクロニシティを感じた。その中にもアオサギの話は出てくるらしい。ミシュレは羽根のための鳥類乱獲を批判していたことも取り上げられている。本書の第三章はそうした、サギ類およびに鳥類の乱獲についての話で締めくくられている。サギは現在でも比較的身近な鳥であると思うが、やはり装飾用の羽根が乱獲された時期には絶滅寸前まで追い込まれていたらしく、胸が痛くなった。

良かった文・シーン
アオサギは通常は単独でいる上、エサを獲る主な方法は、浅い水辺で「じっと動かず待ち伏せする」か「ゆっくりと歩いてエサを見つけてとる」かの二つであり、コサギのように獲物を追いかけたり、脚で追い出したりなどの技を使うことはない。(p.20)
やっぱアオサギかわいいな。ハシビロコウもそうだが、私はじっとしてる眼光の鋭い鳥が好きなのだろうか。
ホームズが暗号解読に活躍する短編「踊る人形」(1903年)の冒頭部分は次の通り。
「ホームズは細長い背中を丸めて座り、黙ったまま何時間も、ひどく嫌な匂いのする物質を作り出す化学容器の上にかがみこんでいた。彼の頭は胸に沈み、私から言わせれば、その姿は、くすんで灰色の羽色をして黒い冠羽をもった、奇妙な痩せた鳥であった」(筆者訳)。
「奇妙な痩せた鳥」の名は明示されていないが、これは紛れもなくアオサギである。孤高で精悍な探偵のイメージに——特にジェレミー・ブレット演ずるホームズ像に——ぴったりだと言えよう。
(p.32)
ホームズアオサギ説、朗報すぎる。
「まっしろな鷺にでもなつてしまはうではないか/こころがつかれると夏服もおもたいし/青いヘルメットの庇から百合を眺めると/今宵の月のいろがまぶしすぎるだらうよ」(詩集『琉球諸島風物詩集』1922年所収)(p.48)
佐藤惣之助の「南方哀詞」の冒頭だそう。すごい良い。
「見たまへ。/蒼鷺が飛んでゆくよ、暗い地底から幻像の蒼鷺が飛ぶよ。/俺は不思議な原始の想ひを、脳の奥底深く秘くし、哀れな蒼鷺となつて、遠い山脈の湿地方へ翔けてゆかう。」(p.51)
これは震えた。蔵原伸二郎の「蒼鷺」という詩らしい。これには筆者も「暗い地底から飛び出す幻像のアオサギ!」と感嘆している。というより、タイトルをこの詩から取ってきているほどだから随分気に入ったのだろう。