佐藤亜紀『小説のストラテジー』感想

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佐藤亜紀『小説のストラテジー』(青土社)

http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=1514

読み始め:2023/4/5  読み終わり:2023/4/12

あらすじ・概要
書き/読むための究極の指南書 フィクションとは、作者と読者が互いの手の内をうかがいながら丁々発止とわたりあう、遊戯的闘争の場である。超一流の書き手にして読み手が、古今東西から選りすぐった実例にもとづき、その戦略・技法の全てを具体的かつ実践的に伝授する。

読んだきっかけ
前々から気になっており、図書館で見つけたため。

コメント・感想
 最初読み始めたときの印象は、カッコいいなこの人、鋭くて怖い、美しい、だったのだが、最後まで読み通していくうちに優しいなと思うようになった。一連の文章が大学の講義の覚書に基づいて書かれたものだと後記に記されており納得した。確かに語りが大学の講義っぽかった。講義なんだけど、それ以前に一人の創作者として目の前に立っているというような。面白かった。読み手としても書き手としても私はまだまだで、もっと精進します、と背筋の伸びる内容だった。「このくらいは前提知識として持ってますよね? え、知らない? はあ〜(ため息)」みたいなことを言ってくれる人は必要なのだ。書かれている内容は確かに基礎の基礎という感じ(プロットと物語と運動について、ポリフォニー、声の種類の考察など)なのだが、引用されている文章がどれもよかった。よくこれだけの事例を集めてきたなと、その奥に膨大な読書量を感じさせられてくらくらする(そんなことを言っていたらまた、「この程度でくらくらするな!」と言われそう)。12章の「作品が全て、人間は無」の「書き上げたなら書き手は口を噤んで退場し、読む側が作品を表返したり裏返したりしながら享楽を引き出すのを眺めていれば、それで十分です。」(p.246)が、佐藤亜紀さんなりの最大限の激励のように思えて心強かった。

良かった文・シーン
表現者と鑑賞者の関係は再調整される必要があります。一方的な送り手である表現者と、一方的な受け手である鑑賞者という関係からは、いかなる対話も生まれて来ません。もちろんこれは現実の対話ではなく、作品を介した言葉にならない対話です。作品は解かれるべき謎としてただそこにあって、受け手がただ読み解き、快楽を引き出すのを、時としては何世紀でも、待ち続けるものでなければならない。読み手は、脳味噌を開いて刺激が流し込まれるのを漫然と受け入れる習慣を諦めなければならない。
 受け手に対しても読み手に対しても、従って、まず要求されるのは表面に留まる強さです。作品の表面を理解することなしに意味や内容で即席に理解したようなふりをすることを拒否する強さです。
(p.23)
表現と享受の関係は、通常「コミュニケーション」と呼ばれるよりはるかにダイナミックなもの、闘争的なものだと想定して下さい。あらゆる表現は鑑賞者に対する挑戦です。鑑賞者はその挑戦に応えなければならない。「伝える」「伝わる」というような生温い関係は、ある程度以上の作品に対しては成立しません。見倒してやる、読み倒してやる、聴き倒してやるという気迫がなければ押し潰されてしまいかねない作品が、現に存在します。作品に振り落とされ、取り残され、訳も解らないまま立ち去らざるを得ない経験も、年を経た鑑賞者なら何度でも経験しているでしょう。否定的な見解を抱いて来た作品が全く新しい姿を見せる瞬間があることも知っている筈です。そういう無数の敗北の上に、鑑賞者の最低限の技量は成り立つのです。(p.25)