鳥の神話と『Flow』——「水くぐる人」を手がかりに
※この記事は映画『Flow』と、カーレン・ブリクセン「水くぐる人」(『運命綺譚』収録)の大幅なネタバレが含まれます。
2025年アカデミー賞長編アニメーション賞を受賞した映画『Flow』を観てきた。超絶大傑作。この記事は、映画『Flow』になぜ感銘を受けたのかを記録しておくために書かれる。そして私にとって非常に重要な作品である、カーレン・ブリクセン「水くぐる人」を補助線に、この映画が何を成し遂げたのかを明らかにすることを目的として書かれている。

https://flow-movie.com(公式サイト)
Story(公式サイトから引用)
世界が大洪水に包まれ、今にも街が消えようとする中、ある一匹の猫は居場所を後に旅立つ事を決意する。流れて来たボートに乗り合わせた動物たちと、想像を超えた出来事や予期せぬ危機に襲われることに。しかし、彼らの中で少しずつ友情が芽生えはじめ、たくましくなっていく。彼らは運命を変える事が出来るのか?そして、この冒険の果てにあるものとは―?
監督のギンツ・ジルバロディスは1994年ラトビア生まれの映像作家、アニメーター。「3年半の歳月を費やして一人で作り上げた長編デビュー作『Away』が、2019年のアヌシ―国際アニメーション映画祭コントルシャン賞を受賞。幼い頃から映画製作興味を持ち、10代の頃から短編映画の制作に取り組む。『Away』の以前にも、手書きアニメーション、3Dアニメーション、実写など、様々な表現形式で7本の短編映画を手掛けてきた。長編2作目となる『Flow』は、2024年カンヌ国際映画祭「ある視点」部門にてワールドプレミア上映後、同年のアヌシ―国際アニメーション映画祭で審査員賞、観客賞含む4冠を受賞。2025年のアカデミー賞国際長編映画祭ラトビア代表に選出、各国の映画祭で上映され、高い評価を集めている(公式サイトから引用)」。
Awayは私は未視聴だが、Amazon Primeで配信されているほか、現在(2025年3月時点)全国の映画館でも上映されている。
本編に入る前に、この記事を書いている私・藤井佯について軽く述べておく。私は「鳥の神話を伝えます」をコンセプトに小説を書いており、動物(特に鳥)と人間のかかわりに大きな関心を抱いている。これまであまり語られてこなかった「鳥の神話」を人間に示すことを使命としている。これまでに書いてきた作品はこちらから。この記事でも、『Flow』について「鳥の神話」という観点から読解していくこととしたい。
Flowの動物たち
突然、大洪水が起こるところから映画は始まる。この映画が中心として追いかけていく黒猫はそれまで棲んでいた住み処を追われることを余儀なくされ、せまりくる水に翻弄されるなかでカピバラの乗った一艘の舟に辿りつく。この舟は他でも散々指摘されている通り「ノアの方舟」のように、次々と動物たちを乗せていく。方舟は、ワオキツネザル、犬、ヘビクイワシを乗せ、彷徨を続ける。とはいえ、水に流されるままに舟は進まない。動物たちはこの帆がついた舟を舵取りし、巨大な遺跡、果てにある峻厳と聳え立つ岩山の頂点へと誘われていく。
Flowの先行する感想として「動物が賢すぎる」という意見が散見されたが、私は端的に言ってそれは動物を舐めている発言だと感じる。たとえばワオキツネザルは人間の遺物に執着し「宝物」のようにそれらを収集する。これらの行動はたとえば現実においてはカラスなどにも見られる行動であり、何ら違和感はない。ヘビクイワシは、黒猫をかばって一族から追われる。ここに「人間らしさ」を感じること自体が間違っている。動物たちは決して環境に対して常に受動的なわけではない。スナウラ・テイラー『荷を引く獣たち』には、屠畜を予知して農場から脱出したイヴォンヌというドイツの乳牛が取り上げられている。「イヴォンヌ、ジャネット、ヒュー・マンチュー、そして名もなきたくさんの動物たちが、動物たちはたたかいにおいて決して受動的ではないことを教えてくれた。最も虐げられ、脅かされていた動物たちすら、支配に抵抗するか、少なくとも傷つきたくはないという選好を表現してきた(同書p.122)」。繰り返す。動物たちは決して環境に対して常に受動的な存在ではない。生死の境目にあっての選択はもちろん、動物たちにも好みや許せないことがあるし、それを脅かされれば具体的な行動に移る点においては人間と同じである。というよりむしろ、人間も動物の一種であるということを強調しておかなければならない。人間は動物の一ヴァリエーションにすぎない。
ヘビクイワシやカピバラが舟を操縦することも、あり得るだろう。ここで、私たちはこの作品を鑑賞するにあたって思い出さなければならない。人間の物語では、人間の意思や決断や選択が、さも能動的であるかのように描かれるが、それは実は当たり前ではないという事実だ。実際は人間も、その選択において周囲の環境から大きな影響を受けているという当たり前の事実が見落とされがちだ。この世界には物語が蔓延しすぎていて、その当たり前の事実を描こうとすると登場する存在が動物になるという転倒が存在するのだ。Flowが人間の物語ではないのは、動物たちも人間たちも同様に、周囲の環境に促されつつ自身の選択した行動を取るものであるという事実を描くには「人間の物語」を描いていては不十分であるからだ。Flowは、動物たちを描くことによって、物語が人間だけのものではあり得ないことを端的に教えてくれる。
宙づりの象徴性
Flowは、登場する動物が極端に少ない。黒猫、犬たち、ワオキツネザル、ウサギ、鹿、ヘビクイワシ、クジラ、魚くらいだろうか。これらの絞り込まれたキャスティングに、私たちはそれぞれの動物たちに対して何らかの象徴性を見出しがちだ。しかしFlowはそれを慎重に回避しているというのが私の見解だ。もちろんそれぞれの種に特徴はあるが、この動物たちが「かつては人間だったのではないか」と考察することや、クジラが物語において何かを象徴しているのだと決めつけることは誤りだと言わざるを得ない。もちろん、たとえば鳥類に関していえばこの作品にはそれがヘビクイワシ以外に登場しない。そこに何らかの象徴性を見出すことはできるかもしれないが、その試みは動物たちがどこまでもその動物らしく描かれることによって宙づりに終わる。ヘビクイワシたちは象徴であって象徴ではない。Flowにおけるヘビクイワシは、「飛ぶことができる」特権性を持った存在として描かれる。飛ぶことのできる鳥たちは、洪水が来ても高所へ高所へと住み処を変えることができ、水中の魚を獲って暮らし続けることができた。それは、住み処を立ち去らざるを得なかった黒猫やワオキツネザルらとは対照的に描かれている。しかし、ヘビクイワシたちを「空を飛べる存在」としてのみ捉えると取りこぼしが発生する。後に方舟に加わるヘビクイワシは翼を折られ、飛べなくなる。それが仲間に見捨てられ、方舟に加わる直接的な原因となるが、かのとりは終盤で、空の彼方へとひとり飛び去ってゆく。それはヘビクイワシが「空を飛べる存在」だからではない。ここにも選択の問題が差し挟まれていて、かのとりはそのときの状況と、そして自身の意思という両方の事情によって「そうなった」に過ぎない。高山の頂上の謎の遺跡のうえで、ヘビクイワシと離れ離れになり、仲間のもとへと戻ることになった黒猫も、そのときの状況と自身の意思という両方の事情により、たまたま「そうなった」に過ぎない。この機微を読みとるには、動物を何か一つのメッセージとして読み替えられる存在として捉えているのだけでは不十分である。ただし一つ指摘しておくとすれば、ヘビクイワシが現実世界におけるデザイン(脚の羽は黒く、顔周りは橙色をしている)ではなく、真っ白な鳥として描かれたのは、この作品が中心として追いかけていく黒猫の「黒色」と対比してのことではあるだろう。
クジラも象徴的な生き物として描かれるが、かのものもそうした安易な物語に回収されるべきではない。クジラは生息域が拡大したことで沈みきった街のうえを悠々泳ぎ回り、たびたび黒猫たち一行のもとへと姿を現す。終盤、水が引ききった大地に打ち上げられ、死を待つのみとなったクジラに黒猫が邂逅するシーンがあるが、あれもただ「そうなった」という事実だけを受け止めるに留めるべきだろう。私が言いたいのは、登場する動物それぞれに象徴性はたしかに付与されているが、それを象徴としてのみ消費されることに対しては、これを断固拒絶する説得力がアニメーションや音楽などから伝わってくるということだ。この映画にはセリフがない。動物たちは鳴き声をあげ、それは現実世界と同様に人間たちには十全に解釈することはできない。その「わからなさ」の狭間で留まるべきだ。そして、本来は言葉を用いてコミュニケーションをとっているわれわれ人間も、他者について十全に「わかるわけではない」のだということを思い出すべきだ。人間も動物も同様にわからない。そのわからなさに差はない。
魚たち
魚たちの話もしておかなくてはならない。Flowにおいて魚たちは、動物と物の狭間に置かれている。しかし魚も動物である。魚たちは、クジラと同様に洪水によって生息域が拡大したことで街だったものの上空を悠々と泳ぎ回るようになる。しかし、ヘビクイワシや黒猫は魚を獲って食べる。そしてその魚たちはどれもカラフルな見た目をしている。登場する種が極めて限定されているFlowの作品世界において、魚たちだけは様々な種が存在し、色鮮やかだ。水が引いたあと、魚たちもクジラと同様に陸に打ち上げられているのだろうが、そのシーンが作中で描写されることはない。魚たちは、水の中にしか存在しない。水が消えれば、どこかへ去っていく。Flowにおいて魚はただそこにあるだけの存在であるが、だからこそ私はここにカーレン・ブリクセン「水くぐる人」の補助線を引いて、Flowにおける魚たち、そして鳥たちについて考えてみたいと思う。
水くぐる人
カーレン・ブリクセンは1885年生まれのデンマークの作家である。デンマーク語と英語の両方で執筆し、デンマーク語版は本名のカーレン・ブリクセン名義、英語版はペンネーム(男性名)のイサク・ディーネセンもしくはアイザック・ディネーセン(Isak Dinesen)名義で作品を発表した(Wikipediaから引用)。彼女が晩年取り組んだ短編集に『運命綺譚』という作品がある。「水くぐる人」を含む5つの作品からなる短編集で、ここでは特にこの「水くぐる人」について取り上げたい。なお、ここで取り上げる「水くぐる人」の訳出は、渡辺洋美訳『運命綺譚』(筑摩書房、1996年)に拠っている。
でも、こういうことのほかに、鳥には翼がある。その点では鳥だけだ、この世の生き物すべてのうちで天使に似ているのは。(中略)このぼくが——」と若者はしめくくって言うのでした。「さいわい学問を身につけているおかげで、こういうことがわかったのだから——ぼくがこれから自分の才能を傾けて、人間に翼を持たせてあげることにしよう」
サウフェという神学生(ソフタ)は、天使に憧れ、この世の生き物すべてのうちで鳥だけが天使に似ているということから着想を得て、一年間鳥類の観察をし、翼を集め、ついに天使の羽をつくりあげてしまう。それを危険視した街の老人たちは、サウフェのもとに天使のふりをした踊り子をけしかけ、サウフェはその踊り子を天使であると信じきってしまい、翼のことは忘れ踊り子と恋に落ちる。陰謀を知ったころにはすでに翼はぼろぼろとなり使い物にならなくなっており、サウフェは失意のもとに街を去っていく。
これが——とミラ・ジャマは言った——わたしの物語の前半です。
しかし、この物語がすごいのは後半からだ。物語の語り手がとある海辺の町へやってきたとき、エルナズレドという人物の評判を知ることになる。エルナズレドというのは海辺の言葉で〈果報者〉や〈しあわせ者〉を意味する言葉で、このエルナズレドというのはほかのどの漁師よりも深く長く海中に潜っており、まちがいなく極上の真珠の入った貝を引き上げるのだという。そして、語り手はそのエルナズレドと面会する機会を得る。するとなんとその人物はかつてのサウフェであることが判明し、サウフェの口から物語の続きが語られるという構造になっている。かれは海中でハコフグのおばあさんに世話になっていると言い、そのハコフグのおばあさんから聞いた話を語り手に語りかける。少々長くなるが一部を引用する。
『人間って、ただひとつの面の上を動くしかなくて、いつも地に縛られているのですね。それなのに、地につけて支えてもらっているのはわずかに足の裏だけ。そこで自分で自分の重荷を背負って、ため息をつかなきゃなりません。あの漁師さんの話からすると、わけのわからない衝動に駆られて、苦労して丘や山の上へ重荷を運び上げても、大地の強い力にぐいと引き倒されることもあるとか。すると地面は人間をずいぶん手荒に迎えてあげるそうじゃありませんか。翼のある鳥だって、力いっぱいに羽ばたかなければ、乗っている大気に裏切られて堕落してしまいます。
ところが魚族は、どの生き物にもまして、きちんと念入りに神の御姿どおりに作られていて、一回で仕上げてなめらかにしてあります。それに、何もかもが魚のためになってくれているのだから、魚は主の戒めを守って生きていると言えますね。
わたしたち魚族は、四方八方から抱き支えられていて、水中ではすっかり安心して、むつまやかに休らっています。上下左右どの方向にも動けますし、どの道を行こうと、力強い水がわたしたちの価値を認めて、魚の形に応じて変身してくれます。ですから、自分たちが昇っているのか沈んでいるのかも全然知らず、いつもすっかり安定しているのです。
そうして、ハコフグのおばあさんはあの大洪水について語る。
『神が天地を創造なさったとき、地には失望させられました。人間は落ちることができたので、たちまち堕落し、神が陸地に置かれたすべてのものがいっしょに堕落したのです。そこで神は人間や地の獣、空の鳥を創ったことを悔やまれました。
ところが魚は堕落しませんでした。決して堕落しないでしょう。いったいどうやって、どこに堕落したらいいのでしょう? そこで神は、ご自分の創造物のうちで失望させることのなかった者たちを、やさしくご覧になりました。
魚に報いるため、神は深奥の泉をすべてうがたれ、天の水門を開かれて、大地は洪水になったのです。そして水は広がって、地を動く肉体は、鳥も家畜も獣も、人間ひとりひとりにいたるまで、すべて息絶えたのです。
あの楽しかった時代と境遇のことをいちいち述べたてるつもりはありません。(中略)——もとの話にもどって、事実に沿って申しますとね、わたしたち魚は百五十日のあいだ、すてきな贈り物を注いでもらって、楽しい洪水のなかを泳ぎ回ったものです。
なぜ私が、この小説をFlowの感想に引用したのかもうお分かりだろう。Flowにおける大洪水は魚たちにとっては恩寵だった。美しい水の世界で真に羽ばたいていたのは他でもない魚なのである。「水くぐる人」では、鳥すらも大地がなければ生きてはいけない存在であると喝破される。鳥は、空を飛べる特権性を持ちながらも、大地に依存している。それに対して魚は、水さえあればどこへ行っても飛ぶことができる。ここで鳥の神話は魚の神話に漸近する。Flowの作品世界のなかで魚たちだけがカラフルなのは、魚たちこそがその世界の一時的な主であったからにほかならない。
魚は危険をおかしません。だって、わたしたちは生を営むうえで、道とやらを作ったり、残したりしないのですから。そういう現象を——実は現象じゃなくて、幻想なのですが——人間はなぜか熱心に思いめぐらして、時を無駄についやしますけど。
魚はだから、水が引けばどこかへと去っていく。魚の次に大地から解き放たれている鳥は空の彼方へ消え去っていった。しかし大地にも希望はある。最後の、黒猫が新たにできた仲間と水面を覗き込むシーンがそれを強く印象づける。黒猫たちは、ときに環境に翻弄されながらも自身の力で決断をして、生き続けていくことができる。そしてその有機的な運動の輪郭を浮かび上がらせることは、動物たちを描くことでしか達成しえなかった。人間の物語が飽和している現代において、Flowのような動物たちの物語が産声を発したことを私は祝福したい。この世界にはもっとFlowのような作品が必要だ。私はこの作品が高く評価され、アカデミー賞まで受賞したことに強く希望を抱いている。
おわりに
映画『Flow』を観たひとにはぜひ、カーレン・ブリクセン「水くぐる人」を読んでほしいし、逆もまたしかりだ。ここには鳥の神話も魚の神話もある。物語が人間だけのものでは決してないことを教えてくれる。動物は「選択できない」のではないということ、人間が能動的な主体であり動物は受動的な主体であるという見方が根本から誤りであることが明らかになる。残念ながら『運命綺譚』は絶版で高騰しているが、この物語はいまこの世界になくてはならないものである。復刊を望むとともに、私・藤井佯自身が鳥の神話を伝え続けることで、この光を絶やさないようにしていきたい。
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480031938(筑摩書房『運命綺譚』書籍ページ)
https://amzn.asia/d/3nlM52b(『ブリクセン/ディネセンについての小さな本』カーレン・ブリクセンの生涯と作品についてまとめた入門書)
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