【コミッション④】Betta splendens
そのベタはあるとき川へと捨てられて、それでがんばりました。がんばって、生きなければなりませんでした。ベタは川の濁りにも順応して、藻をたべて、薄暗闇にじっと身をひそめて、そうしてだんだんと川はベタのことを受け入れて、ベタはときおりやすらぎを覚えて、もといた場所のことなんてすっかり忘れてしまいました。
どこから来たのか、自分が、ベタにはそれはわからなくて、どうやらベタというのは南のほうがふるさとらしい、遠い先祖は南へいるらしいということはわかっても、ベタの覚えている景色は南の景色ではなくて、何の変哲もない(ということはベタにはわかりませんでしたが、人間の基準で見るとそうでした)部屋で人間に飼われ、そしてなにがあったのかはわかりませんが人間はベタを近所の川へ放流し、ベタはどぼどぼと水に押し流される形でここへ追いやられたのでした。ベタはどこへ行きたいとか、何がしたいとかはなくて、しかし心にぽっかりと穴があいているのだけはわかりました。ベタは、本当は死ぬ予定でした。人間に飼育されていた生きものが自然のなかにいて、無事ではすまされませんでした。しかし、そこにあらゆる霊が、草木の霊、かつて川で死んだ魚たちの霊、川底の落とし物の霊たちが、力を与えて、ベタはもうかつてのベタではなくて、いろんな霊の集合体で、からだは大きくなって、大きなひれがあって、そうベタは黒くて青くてきらきらと川底で輝いて、ただ緩慢な水の流れに揺蕩い、それはそれは優雅な姿を水面に映し、どこへともなく彷徨いました。泳ぐのはあまり得意ではありませんでしたが、水はベタに力を与えて、その姿を美しく見せました。ベタは、ときおり水面に顔を覗かせては呼吸をし、もう呼吸はいらないからだ、ラビリンス器官はかたちだけになってしまったからだ、にもかかわらずかつての名残からそうするのが習慣でした。
ベタはひとり泳ぎました。ひらひらとからだが揺れて、川にはそれを見てくれるひとはいなくて、なかまもいなかったけれど、ひらひらと泳いでいきました。やがて水面の一部が暗くなっているところがあり、ベタはそれを好ましく思って落ち着きました。それは人間が架けた大きな橋の下なのでした。橋の下にはいつも光の差さないところがあって、ベタはその薄暗闇を気に入って、そこにそっと腰掛けました。そう、ベタは座るのです。てごろな石を見つけたら座り心地を確かめるのです。やがてエメラルドを夜闇にかざしたような色のどんよりとした石を見つけ、ベタはそこに腰掛けるとゆったりとやすらって、しばらくそれで時間が流れてゆきました。
ベタ、ベタ、ゆうがな尾ひれ
渦に呑まれる
ひらひらと揺れる
きりもみになって
それは落下する天使に漸近してゆく
ベタの生活はかわりませんでした。ときおり、大きな鳥の影がさっと隣を過ぎていって、それはベタの天敵ではありましたが、ベタはすでに幾多の霊のちからを受け取っていて、もうそれは川の主とでもいえるような見た目になって、美しく、巨大なベタは川底に沈んで、ときおり浮上してかつての名残のように口をあけ、そのたびに呼吸すらもう自分には必要なかったのだと気づき、その繰り返しでした、
ベタ、ベタ、泣いている
魚は涙を流さないが
川がかわりに泣いてくれる
魚の涙を集めて
波が遡上してゆくよ
ベタはあるとき、何かが落ちてくるのを見かけました。ぼちゃんと鈍い音がして、それは天から降ってきました。天使のわりには重そうで、しかし天から降ってくるものをベタは天使以外に知らなかったので、その音のあるじのもとへと近づいていきました。ベタは、かつて自分も天から降ってきたことなどすっかり忘れて、天使と信じるもののそばへと近づいていきました。
それは、くまのぬいぐるみでした。
ベタはぬいぐるみのことは知らなくて、もしかしたら人間の家で影くらいは見たことがあったかもしれませんが、水槽の奥から見ている世界は今よりずっと狭かったので、そんなことはおぼろげになって思い出せず、その茶色い物体をつんつんと口をつかってつつきました。くまのぬいぐるみは水を吸ってずっしりと重たくなっていて、しかしベタのからだはもう大きかったので、それをひれでくるんで、少しずつ自分のすみかへと引っ張ってゆきました。
くまのぬいぐるみ
茶色くてふわふわ
水のなかにいると
それが濃くなって
夜の公園の土の色
ずしりと重たくて
背負わされた重み
痛い、痛い、痛い
ぬいぐるみが目を覚ますと、目の前には美しい魚がいて、尾ひれを優雅にくゆらせていました。ぬいぐるみはその姿を川の天使なのだと思い込みました。ベタはぬいぐるみが目を覚ましたことに気がついて驚きました。しかし、ものといきもののさかいめはもうすでに曖昧になっていて、ぐちゃぐちゃで、なにせ橋の下にいるものですからそれらは重なっていて、ベタとぬいぐるみは一目みてお互いにあなたはひとりぼっちだったのかと通じあうことになりました。
ぬいぐるみは自分では動けませんでした。ベタがいつもぬいぐるみをひれにくるんでいて、何か面白いものが流れてくるとぬいぐるみのからだの向きをその向きへと整えてあげました。ぬいぐるみは流れてくる風景、自分を切り離した風景について、あまり思うところはありませんでしたが、自分の大切なものを思い出してぽろぽろと涙をこぼしました。涙は川がさらっていって、銀色の粒になってやがて霧散してゆきました。
ベタはぬいぐるみが泣いていることに気がついて、美しい石をやりました。それは実は角が少しだけすり減ったガラスだったのですけれど、ぬいぐるみはそれを気に入りました。かつてのぬいぐるみの宝物はビー玉だったことを思い出したのです。そして、ぬいぐるみはけっして自分が捨てられたのではないのだと信じていました。
風が悪さしたんだよ
ぼくは羽根のように軽いから
ぼくは風船のようにどこへでも飛べるから
ぼくはあの子から離れて飛んでいってしまったんだ
ぬいぐるみは、その点においてこの魚と自分は異なるのだなと感じました。ベタは捨てられたものの風格をそなえていて、それゆえに幾多の霊たちはベタに味方して、川底の王の風格を授けたのでしょう。ベタはそれについてはどうも感じていないようでしたが、ぬいぐるみはベタのなかに底なしの穴があいていることを感じていましたし、実際ベタを優雅に見せているのはその穴なのだと確信していました。
きみの穴には
一体何が棲んでいるのかな?
ベタは眠りから覚めると、そこに棲んでいるのはまた自分自身なのだと思いました。まったく別の場所に自分がいて、ベタはその穴をとおして通じ合っているのです。ベタは月面にいる仲間を思いました。
月面は荒涼としていて、しかしそこで生まれそだったわけですからその景色についてそのベタは特に何の感慨を持つでもなく、しかし重力が小さいのでゆらゆらと泳ぐのは自在でした。ベタは月面をふんわり浮かんで進んでゆきます。やがて人間が立てたとおぼしき旗が見え、その周囲をベタはぐるぐると回りました。ベタはぬいぐるみを背中に乗せることを思いついて、ぬいぐるみも月面へと連れていってあげようと思いました。
穴
穴はそこかしこに空いていて、しかし底のある穴でした。クレーターはいくつも重なり、ぶつかりあい、幼児が乱れ押したはんこのように窪んで、ぬいぐるみはそれを見て不気味に思うどころか少し惹かれている自分がいるのを発見しました。あのクレーターの底で眠ってみたいと思ったのです。光の届かない場所で静かに、ときおり新しいクレーターができるかもしれず、穴からのぞき見る外の世界には流星が落ちていくかもしれず、しかしそこには依然として何もない暗闇ばかりが広がっているのでした。ベタはゆっくりと泳いで、クレーターの底を目指して降りてゆきました。ぬいぐるみはだんだんと自分のからだが乾いていくのを感じ、しかしぬいぐるみなのでそれはどのような状態でも問題がありませんでした。
クレーターの底にたどりつくと、ベタとぬいぐるみは真上を見上げ、ずいぶんと深くまで降りてきたものだなとしみじみしました。川底にいるのよりもずっと安定していて、川底にも川底の良さがもちろんあるのですが、この途方もない、救いから突き放されたかのような光景こそが自分たちにはふさわしく、安らぎを感じるものとしてあるような気がして、ふたりはゆっくりと目をつぶりました。ぬいぐるみはベタにもたれて眠り、しかし別にそれは温かくはないのでした。
川底で目を覚ましたふたりは、次の穴を探しました。洞窟の底に水の溜まった場所があって、そこがねぐらの候補となりました。その洞窟は壁面がうっすらと輝いており、眠るには少々明るすぎるような気もしましたが、その光が安寧をもたらす清らかな光だったのでふたりは癒やされてゆきました。洞窟では時折水のしたたり落ちる音がして、それが少しずつ、少しずつ地面に染み渡ることで地面の形を変えていることがわかりました。どれほどの長い時間そこにいたかはわかりませんが、ふたりが目を覚ましたころには地面が少しだけ隆起していました。水滴が柱をつくったのです。
ベタとぬいぐるみは、そのほかにも色々な穴ぐらを探して泳ぎまわりました。しかし本体は相変わらず橋の下の川底にあって、そこでふたりは動かずにじっと意識を飛ばしているのでした。やがて橋の下には葦が生え放題になり、ふたりのことをすっぽりと隠して、人間には絶対に見つけられないような場所になりました。水の流れも少しずつ弱まっているのをベタとぬいぐるみは肌で感じ取りました。
行くってどこへ
行かなければなりませんでした。ベタは今までに眠りに沈んだどんな底も愛していましたが、どれも橋の下からは遠い場所にありました。そこで、川をのぼってゆき、森のなかにそうした穏やかな場所がないかを探しにゆくことになりました。ベタは背中にぬいぐるみを乗せて、というよりも背びれでぬいぐるみをくるむようにして、尾びれでひらひらと慣れない泳ぎをして川をのぼり、のぼってゆきました。
ベタは幾多もの霊の導きのおかげで疲れをしらないからだになっていることに気がつきました。泳いでも泳いでもそれは涼やかなまま、気だるげなからだの熱が発されないままに、ひんやりと泳ぎきることができました。川をのぼってゆくと、川の明るさも場所によって異なるのだということがわかりました。明るすぎる場所をふたりはいやがって、夜になるとそれはもう安心したものでした。明るいところにふさわしい生きものがいるのではなくて、夜に逃げ込んでいるのでもなくて、ふたりにはただ暗い場所が似合っているだけでした。暗い場所はふたりを隠して湛えてじっと張りつめて動きませんでした。この動かなさをふたりは気に入って、それはきっとふたりが本質的には軽いものだったからだと思いますが、ベタとぬいぐるみは重さのなかに落ち込んでゆったりとやすらぎながら、上へ上へと遡行してゆきました。
川の流れにさからって
銀の波になって
わたしたちはゆく
それを遮るものは昼間の太陽の光ばかりで
太陽は矢印に従わせるのが仕事だから
わたしたちを元の場所へ戻るように諭してくる
夜の波は逆行して
すべてを受け入れておおらかに
それは混沌として渦になっており
渦はわたしたちの味方だった
周囲が静かになってきて、水の音を通して小鳥の鳴き声が聞こえはじめ、人間のいた場所からは遠く遠くへやってきたのだとわかり、苔や濡れた岩は鮮やかで、ベタもぬいぐるみもその鮮やかさのなかへまっしぐらに進んでゆき、やがて滝の落ちる音を聴いてそこが終点だとわかったのでした。大きな窪んだ岩があり、その隙間にベタは身を落ち着けると、それはちょうどふたりぶんの広さを持った空間であることがわかり、過不足がなく、いつもすっぽりとふたりを迎え入れるのでした。
生まれる前にこんな場所にいたのかもしれない
どちらともなくそう思いました。
ベタはやがて深い眠りに落ちました。そばにぬいぐるみがいることで安心しきっていたのです。ベタは久しぶりに夢を見ました。穴があって、たくさんの穴のなかからベタが出てきました。どれも自分そっくりで、いえ自分そのものなのでしょう、月から、洞窟から、川の底から這い出てきて、それらは空中でひらひらと舞うようになって、やがてひとつの大きなベタに変身してゆきました。目を覚ますとぬいぐるみはまだ隣にいて安心しました。それで、自分のからだをしげしげと眺めたのですが、ベタは夢の出来事は本当に起こることで、いずれ自分はもっと大きなベタになるのかもしれないと思いました。
ぬいぐるみにはやがて藻が生えてきました。ベタはそれを食べて綺麗にしてやりましたが、ぬいぐるみのからだはどんどんと緑に覆われていって、ベタはそれに追いつくことがだんだんと難しくなってゆきました。
苦しくはないよ
やっと終われるんだと思う
でもすこし寂しいな
ベタは置いて行かれることについてはどうとも思いませんでしたが、このままではぬいぐるみがぬいぐるみでなくなってしまうのではないかと思って、それは悲しいと思ったのでした。だからぬいぐるみの瞳を食べてしまったのです。ぬいぐるみの瞳はビー玉のようでした。そのとき、ぬいぐるみの手から何かがこぼれ落ちました。かつてベタがぬいぐるみにあげた、ガラスの破片でした。
もう怖くない
一緒になったから
ベタはぬいぐるみを宿して、そうするとぬいぐるみがベタのからだに乗り移ったようになって、それはかつてふたりで旅をしていたときと同じ感覚でした。ぬいぐるみの本体はすっかり苔に覆われてしまって見えなくなりました。岩と同化してしまったのです。ベタは自分のからだが少しずつ大きくなっていることに気がつきました。このままだと岩の隙間から出られなくなると思い、ベタはいつぶりかに川の中へ戻ってゆきました。
向かうべき場所は決まっていました、滝のほうへベタはまっしぐらに進んでゆき、滝の流れにさからって上昇してゆきました。水の勢いでベタのひれはやぶれかぶれになって、そうしてぼろぼろの物体になったまま、それでもベタは上昇してゆきました。やがてすべての重力から解放される瞬間がありました。ベタは滝をのぼりきったのでした。
しかしそれだけでは終わらず、ベタのからだはぐんぐんと上昇してゆくのでした。ベタは夜の闇のなかを泳ぎました。穴はもう見つけなくてよくて、ベタのからだはすぅっと軽くなってゆきました。ベタは月が出ているのを見つけてそちらのほうへと泳いでゆきました。
月への道のりは遠くて、遠くて、遠くて、ベタは自分がどこへ向かっているのかも忘れそうになって、しかしその間にもベタのからだはどんどんと大きくなり、透き通ってゆき、ベタのからだをすり抜けた鳥は驚いてバランスを崩し落下しかけました。やがて鳥たちはこの新しい空の支配者の存在に気がつき、ともに飛翔したり、ベタの背中にとまってともに月を目指したりしました。鳥たちが地上からいなくなったのは、わずか三日にかけてのことでした。
鳥の大群はベタを巻き込んで、ベタはその中心でゆったりと航行を続けておりました。ベタと鳥は月がもう目前に迫っていることを悟りました。ベタは鳥たちとともに月面へ降り立ち、鳥たちは月面にたくさんの糞をして、足跡をつけてまわりました。クレーターは巣のかわりとなって、月面うまれの鳥が誕生しました。ベタは月の表面をゆったりと泳いで、かつて自分が潜った穴を探しました。今やどこにいっても鳥たちがついてきて、どこを眺めても鳥たちが飛び回っていて、月は賑やかになりましたが、鳴き声はひとつも聞かれませんでした。
ベタは一つずつ、ひとつずつクレーターを確かめていって、そうして人間の立てた旗のことを思い出しました。人間の立てた旗は鳥たちが巣材にしようとちょうど引っこ抜かれようとしているところで、ベタは運良くその現場に居合わせて、この付近に穴があったのだという確信を強めました。しばらく泳いでいると、あった、ありました。自分が大きくなったから、かつてとてつもなく大きいと思ったはずのクレーターもぽつりと小さなものだったのだとわかりました。まだベタの潜ることのできる大きさだったので、ベタはそのクレーターの奥へ奥へと進んでゆきました。
底に辿りつくと、ベタは上を見上げて、穴の中心に宇宙が見えることの不思議を思いました。それで、底に何か光るものを見つけて驚いたのです。それはビー玉でした。それはきっとぬいぐるみが宝物にしていたというビー玉だったのでしょう。ベタはぬいぐるみの瞳を吐き出しました。瞳はビー玉を見つけると嬉しそうにくるくると宙で回転を始めました。
そうして月は、鳥と、瞳だけになったぬいぐるみと、それを統べるベタの国になって、しばらくは人間もやってはこないだろうし、好き勝手にやろうということになって、なんなら人間を惑わせるための偽物の月なんかもつくりあげて、本物の月面のうえでは鳥たちが繁栄して、その隙間を悠々とベタが泳ぎ、それに二つの球体がくるくると回転しながらついていくのが日常となって、幾許も時間が流れてゆきました。ベタはベタをここまで連れてきてくれた霊たちのことを思い出して、かのものたちを月面に招待することはできないだろうかと感じました。それで、そうしたのです。
ある夜、月がひときわ輝いたかと思うと地球の表面をなぞり照らし、その柔らかな光は清浄な厳しさをもって人間たちを焼きました。人間たちは月の光を浴びて無事ではいられず、しかしベタの関心は人間にはなく、人間たちはその後もなんとか地球のうえで生き延びていくことになるでしょう。人間たちのつくったもの、無機物、生命の宿るもの、それらすべてにベタは訴えて、地球に残りたいものは残り、月へと行きたいものは月へと大移動を開始して、その晩地球上はもっとも騒がしい夜を過ごし、ベタたちはものたちの行列を率いて月へと帰ってゆきました。そのときに、ベタは古い地球にも挨拶をして、古い地球は、
すべての流転
と返事をして、その後二度と語りかけることはありませんでした。ベタはすっかり引き延ばされ透明になっていましたが、まだベタとわかる美しい背びれと尾びれは健在で、それは月面へとのぼってからゆっくりと手入れしなおしたもので、もう滝なんかには負けないしなやかさのひれとなって、月の上で行けない場所はないほどのたくましさを備えていました。月は小さいので一日もあれば一周することができて、ベタはそれを毎日の習慣として、月面に住まうものたちに挨拶をしてまわりました。ベタの通ったあとには清浄な暗闇があふれ、住民たちはそれをきっかけとして夜が来るのだと知りました。夜を引き連れてベタは、月の上にも水があればと思いました。水があれば、魚たちも月面に呼ぶことができます。なにもベタのようにならずとも、つまり幾多の霊に導かれてどこへでも自在に泳いでゆけるようなことがなかったとしても、水があれば魚たちも生きてゆけるのだと、気づいたのでした。
ベタは、ぐるぐると泳ぎ回って、その間は一日に何度も夜と昼が入れ替わりました。鳥たちをはじめとした住人は何かがベタをそのようにさせているのだと原因を探りましたが、ベタは魚たちを呼ぶという考えについては誰にも喋りませんでした。そして、昼と夜とが百八回ほど入れ替わったその日、ベタはひとりで再び地球へと赴きました。
地球では残ったものたちが粛々とその生を謳歌しており、それはそれで楽園であり、人間はすっかり減ってしまって、かつての古い地球の面影がだんだんと濃くなってゆく予感、ベタは魚たちを訪ねて、魚たちは水があるのであればとのことだったので、月へ水を溢れさせることが第一の問題となりました。それでベタは水を呑み込んでみて、そのときはもう海でも川でも滝でも湖でも、どんな水でも呑み込むことができて、少しだけ地球のそれを拝借しては月面へと水辺を移管させるということを繰り返しました。やがてベタの輪郭はぼやけてゆきました。
その日もベタは、水を汲んで月面へと帰っているところでした。あとからついてきた魚たちとともに月面へ降り立つと、ベタはぱしゃりと破裂してしまいました。ベタの破片は四方八方に飛び散ってそれは雨となって月面に降り注ぎました。ベタの破片は雨雲となって月面を覆って、雨が、何日も何日も降り続けました。魚たちは喜びましたが、鳥たちをはじめとした生きものたちにとっては災厄となりました。しかし雨は月面のすべてを覆ってしまう前にはすっかりとやみ、そうして月面には斑に水辺が誕生して、魚たちはあるべき場所へとそれぞれ落ち着いて、そうすると水のなかにベタがいることがわかりました。ベタは月の水へと変身して、水のなかから月面の生きものたちを見守るようになったのでした。鳥たちはベタがいなくなったことで夜を告げる存在がいなくなってしまったことを嘆きましたが、水はいつでもひんやりとして、鳥たちのからだを潤してくれたので、やがてベタが鳥たちのなかにも入り込んでいって、鳥たちが空を飛べば夜がやってくるようになりました。それで、鳥たちは当番を決めて、月ではその当番が月面を一周したころに夜が訪れるようになっています。地球との交流は、ベタが水になってしまったことでぱたりとやんで、誰もかれもが地球のことなど忘れ、やがて月面生まれのものたちが大勢を占めるようになり、月は月の歴史を紡ぎはじめました。人間たちは、もう月に行く力など持ち合わせていなくて、そのとき何があったのかを語るものも失われて、しかしただ地球の上で生きていくのだという決意を新たにし、そうして夜になると月を見上げるのでした。月はますます力を増していくように思われ、もうすぐ月と地球とが大接近するという段階になり、月のものたちは地球とのかかわりを避けるようにして偽物の月で擬態して、さて人間は月にようやく手が届く段になって、そこに辿りついたものは月面には何もなかったことを認め、すごすごと去っていくのを横目に月のものたちは祝杯をあげ、月のものたちはやがてすぐれた知性と精神性を持ち始め、それには古くから存在するという一対の球体の回転が導きを与えていました。一対の回転する球体はそのからだに蓄積されていた知恵を月面に振りまいてゆき、しかし人間の記憶はもうなくて、そこには純粋な知恵だけがあって、月面は鳥たちをはじめに魚たち、いのちをもたないものたちの楽園となって、石はあるだけで完璧な石であったし、草木も完璧な草木で、魚たちも鳥たちもいのちないものを大切にして、そうして少しずつその重なる部分が広まってゆきました、人間の言葉では形容のできない何かが月面に誕生し、そうしてベタのことは決して忘れず、月面の創世記として語り継がれ、雨を降らすよう盛大な祭りが催され、そのたびにベタは水の底から蘇り雲となって月面を駆け巡り、それが終わるとふたたび水の底へと帰って眠りにつくのでした。ベタはもうベタだけではなくて、いろいろなものが混ざり合っていて、でもベタとしての意識もあることにはあって、そうしてときおり古い記憶の夢を見るのでした。そこでは狭くて暗い川の底で、くまのぬいぐるみと寄せ合って眠っていて、橋というのは人間のつくったもので、人間のことはもう忘れた、だけど人間のものに囲まれていて、いのちないものたちも元をたどれば人間のつくりだしたものを祖先にもつものがあって、それで人間はたしかに月とつながってはいるのだけど、そのつながりはすっかり薄れてしまって一本の糸になっているのだということがわかられて、ベタはそのたびにベタは、自分が人間から捨てられたのだということを思い出し、しかしそれを悲しみもせず、そのようなことがかつて存在したのだということでしかもう感じ取ることができず、ベタは、ベタは、もうすっかり幸せで、不幸だったことなんてなかったけれどすっかり幸せで、満たされていて、失うものや欠けているものなど何一つなくて、月の上はひんやりとして気持ちがよくて、ベタは月のベタになってあるべき場所に落ち着いていて、あるとき鳥たちが騒いでいるので耳をすましてみると、古い巣から不思議なものが出てきたのだということで、見てみると人間が昔立てた旗でした、ベタは起きてきてかりそめの姿をとって、水面にそっと口をつきだすようにして地上にあらわれて、その動きがもはやなんのための動きであったかも忘れてしまったけれど、それはもうよくて、どうかその旗をわたしに捧げてくれないかと鳥たちに交渉しました。鳥たちは喜んで旗を捧げ、その旗はいま、クレーターの底に、そっと立てられています。
(了)


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