【コミッション③】ヨーコ
先生の真似をして、みんなで煙を蒸かした。教室中からぼこぼこ、ぼこぼこと音がして、咳込むものもいた。
「それじゃあゆっくり吐き出しましょう」
と先生が言うので、生徒たちはふーっとゆっくり煙を口から出した。それは教室の空気になって混ざり合うかのように思われたが、机の上で雲のような塊になって、留まった。
「それが魂だしの基本ですからね」
生徒たちは歓声をあげる。おそるおそるつっついてみたり、隣の席のものと見合わせたり、にわかに教室が騒がしくなる。ヨーコは目の前に吐き出したそれを見た。白くてふわふわで、心許なかった。今にも消えてしまいそうだった。
「だから今日の宿題は、煙に名前をつけることです。明日になったらその魂は消えてしまいます。寝る前に必ず名前をつけるのですよ」
ヨーコの後ろを、煙はついてきた。下界には犬という生きものがいるらしいが、その煙はその幼いころの状態、子犬にそっくりだった。ヨーコは昔図鑑でその姿を見たことがあるのみだったが、子犬というものを了解したような気がした。
ぴょこん、ぴょこん、と跳ねながら煙は低いところをついてくる。ときおりぴょんと飛び上がって、ヨーコの前に回って通せんぼをした。早く名前をつけてくれと言っているみたいだ、とヨーコは思った。
「じゃあこいつはぴょんすけだ!」
お調子もののカケルはその場で煙に名前をつけていた。ぴょんすけと名づけられた煙は一度ぴょんと跳ねたかと思うと、たちまち濃くなった。そう、としかヨーコには形容できなかった。なんだか、存在が定まったかのような、安定した? そんな感じ。
それを見て、クラスのみんなも次々に名前をつけ始めたけれど、ヨーコにはそれができなかった。なんでだろう、と思うけど、どうしても難しかった。ふよふよと漂う煙がヨーコのことを覗き込んでくる。ヨーコはじっとその煙を見つめたり、目を閉じてみたりして頭を捻ったが、どうしても名前をつけるということが難しかった。
「今日は魂だしの日だったのか」
と父さんが洗濯物を畳みながら言った。
「もう名前はつけた?」
「まだ」
ヨーコは煙にそっと触れた。
「どうしても思いつかない」
「パパも最初はそうだったさ」
「パパが?」
「最初は、消えてしまったって仕方がないと割り切ることも大事だよ」
「うん……」
でも、この煙が消えてしまうのは惜しかった。ヨーコは自由帳をひらいて、名前の候補を書き出してみた。どれもしっくり来ない。煙が覗き込んでくるのにも集中力を散らされた。
「少しだけ、ちょっとだけあっちにいってて」
ヨーコが煙をしっしと追い払うと、煙はすごすごと部屋の奥に丸まって、そうしていつしか寝息を立て始めたような気がした。
夜になって母さんが帰ってきてからもヨーコは悩んでいた。ヨーコのお気に入りの食事が並んだが、ヨーコがなかなか食べ進めないので母さんは心配した。
「実は、魂だしをしたんだよ」
と父さんが補足して、母さんは「あらまあ」と言った。
「そんなの、文字を思いついた順番に発声すれば、それが名前になるわ」
そんなに適当でいいのだろうか、とヨーコは思った。
「わたしの名前はどうやってつけたの」
それを聞くと、ふたりは顔を見合わせた。
「あなたがどう思うかはわからないけれど……」
「下界の女の子を助けたときに、その子の名前がヨーコだったんだ」
「パパとママが出会ったきっかけね」
「そのヨーコちゃんを召し上げるか生き返らせるかで大もめして」
「ははは懐かしいなあ、あのときのママは本当に怖かったんだぞ」
「ママだって新米のころだったもの、助かる命ならなんだって助けたかったのよ」
母さんが顔を赤らめる。下界の女の子の名前だったなんて、初めて知った。
「生きていればもうすぐこっちに返ってくるな」
父さんがしみじみと言って、スープを啜った。
ヨーコは煙と一緒に布団へもぐった。煙は薄く消えかかっていた。それに、広がっているのもわかった。煙は夜になると消えてしまう、という先生の言葉が蘇った。もうあまり時間がないのだ。
「ヨーコ」
ヨーコが言った。
「あなたもヨーコってことにすれば」
煙が抱きついてきた。そうして、煙がぐんぐんと力を増していくのをヨーコは感じた。ほとんど向こう側が見えなくなるほど真っ白になって、煙のヨーコは存在を獲得した。間に合ったらしい。ほっとヨーコは息を吐く。
「それじゃあ、あなたも明日一緒に学校に行くの」
煙のヨーコが頷いたような気がした。いつの間にか、ふたりは眠っていた。
「みなさん宿題はやってきたかな。おや、ヒラヤくんのは消えちゃいましたか。それじゃあまた魂だしからやり直しですね。みなさん、良い表情の魂ばかりです。きっと素敵な名前をつけてもらえたんですね」
教室にはふわふわと煙たちが浮かんでいて、自在に飛び回っている。昨日より元気そうに見えるのは、やはり名づけの効果なのだろうか。
「それでは今日は煙を降ろす方法について実践しますからね」
ヨーコは、すぐに煙のヨーコとおわかれしなければならないことが惜しくなった。煙のヨーコも、こちらの顔を覗き込んでいる。なんとなくヨーコと離れ離れになってしまうことを察しているような気がする。
「雨を降らすのは、こういうときなんですよ」
先生が降らしの準備をしている間、ヨーコは煙のヨーコに口添えした。
「わたし待ってるから、またいつか会いに来てね」
生徒たちが一列に並んで、先生のつくった雨雲に向けて煙を掲げた。煙たちはあっという間に雨雲に吸いこまれて、その日、下界では雨が降った。
こうして杳子が生まれた。杳子はそのときのことをうっすら覚えていて、それで友だちにも聞いてみたのだが、誰一人そんなことは覚えていなかった。
私たちは生まれる前、煙だったんだよ。
それで、杳子はいろんなものに「ヨーコ」と名づける癖があった。一つの名前しか持っていなくても、ものは区別できた。スズメのぬいぐるみも「ヨーコ」だった。杳子はそのヨーコを、ランドセルにつけていて、帰ってきたあとはわざわざランドセルから外して家の中でも持ち歩いた。ヨーコは杳子といつも一緒で、寝るときも杳子は「おやすみヨーコ」と口にした。スズメのヨーコは、自分にかけられた言葉なのか、杳子自身が杳子におやすみを告げているのかわからなかったが、いつも心の中で「おやすみ」を返した。
ある日、杳子は交通事故に遭いかけた。青のはずの横断歩道に車が突っ込んできたのだ。そのとき、ランドセルにつけていたはずのスズメのヨーコが羽ばたいた。杳子は驚いて「ヨーコ?」と走り始めたところ、直前まで杳子がいたはずの場所を車がブンと通り過ぎたのだった。
ヨーコはぱたりと地面に落ちた。ヨーコの繊維はばらばらになって、中の綿はごっそり消えていた。杳子はヨーコの残骸を拾い集めながら、自分はヨーコに助けられたのだ、と思った。
こうしてようこが生まれた。ようこは自分がどうしてここにいるのかわからなくて、それで暗い暗いその場所を彷徨っていたが、やがてぼんやりとした薄明かりを見つけてそこへふらふらと歩いていった。
「あなたは良いことを為しましたね」
と、そこにいたひとが言った。そのひとは、何もない空間を指さした。そうすると、そちらの方面がぼんやりと明るくなっていった。
「決して振り返ってはだめ。あなたはあちらへ進みなさい」
ようこはわけもわからないまま頷いて、そのひとの言う通りにした。
杳子のクラスに転校生が来た。それが、名前がようこだった。ひらがなで「ようこ」。漢字はありません……とその子が言うのが不思議で、でも同じ名前だから親近感を持った。
「ようこちゃん、あそぼ」
杳子はさっそく休み時間にようこに話しかけた。ようこは茶色い髪をおさげにしていて、目がくりくりとした小動物みたいな女の子だった。
「うん」
ようこはそれ以来、杳子の付き人みたいにしてどこへでもついていった。ふたりの遊びはふたりだけのもので、目に付いたものを手当たり次第に「ヨーコ」と命名していくものだった。風に揺れるたんぽぽ「これはヨーコだね」、散歩している光る犬「きっとヨーコだよ」、川辺で見つけた綺麗な石「ヨーコだ」、「今日の天気、ヨーコだね」、「明日の時間割、ヨーコだよ」、「ヨーコ」、「ヨーコ」、ふたりはヨーコだらけの世界に住んでいた。
杳子とようこは、子どもらしい遊びもした。近所の電話帳から「ヨーコ」という名前の人物を探し出し、一軒ずつ訪問した。たいていは子どものいたずらだと思われて、追い返されたが、なかには二人ともが「ヨーコ」であることを面白がって、お菓子をくれる大人もいた。
そんなある日、萩墨洋子という名前を杳子が発見した。
「次はここね」
「ちょっと遠いけど、校区内だね」
ふたりは通学路を逸れて、てくてくと萩墨の表札を探し始めた。
チャイムを鳴らしても萩墨洋子は出てこなかった。玄関の扉は鍵がかかっていなくて、ようこが横開きの扉を開けた。中はしーんとしていて、しかし整頓されている。カチ、カチ……とどこからか振り子時計の音がした。
ボーン。
萩墨洋子は布団に横たわっていた。もう高齢で、先が長くないのがひとめでわかった。
「洋子さん、起き上がれないの?」
と杳子が聞くと、ややあって洋子が頷いた。
「それじゃ、わたしたちが見守ってあげるね」
何を、いつまで、とは言わなかった。でもふたりにはそうすべきのような気がしていた。
杳子とようこは毎日、洋子の家へ出かけていった。洋子は調子の良いときは縁側に腰掛けていて、ぽつりぽつりと話すようにもなった。
「奇遇だねぇ本当に」
洋子は湯飲みからお茶をずずずと吸った。子どもの好きそうなものはもうこの家にはなかったから、杳子とようこはお菓子も食べずに苦いお茶を一緒に飲んだ。大人の味だ、と杳子は思った。
「いつかお迎えが来るだろうと思っていたけれど、こんなにかわいい女の子だったとはねぇ、それも、ふたりとも、ようこなんだねぇ」
洋子は丸くなった背中をゆっくりと起こしてふたりを見た。杳子とようこは、洋子がもう死ぬのをわかっていて、でも何も言わなかった。
「また明日ね、洋子さん」
杳子とようこは、明日が最後になることを、ヨーコ同士だから、わかった。
洋子の家に行くと、洋子はじっと布団に臥していて、目も開かれていなかった。ガラガラという扉の開く音で、薄く目を開いて、ゆっくりと玄関の方に目を向けた。杳子とようこがやってきて、部屋の隅にランドセルを置いた。
「今日だね」
「今日だよ」
洋子は頷きともため息ともつかない動きで息を吐いた。杳子とようこはふたりで洋子の手を握った。
「こうしたら一緒に行けるかな」
「行けるんじゃない、ヨーコだし」
ボーン。
ボーン。
ボーン。
ボーン。
鐘が四回鳴ったあと、三人は部屋から忽然と姿を消した。
「それでね、あなたに会いにきたの」
ヨーコは目を丸くしていた。ヨーコはいまお母さんになっていて、子どもを身ごもっていた。女の子だった。病室にいると、突然三人が入ってきて、三人はずっと手を繋いだままだった。
「繋いでいるの、ほどいちゃうとダメなんだって」
ようこが言った。
「怒られたでしょう」
ヨーコはかろうじてそう言った。
「うん、でも親切な門番さんだったよ」
杳子はヨーコの手を握った。
「あなたがわたしを名づけてくれたんだよね」
ヨーコは、まさか煙がそんな記憶を持っているだなんて思ってもいなくて、というよりそんな話は聞いたことがなかったので、ただただおろおろと「ええ、そうね」と返すほかなかった。
「そちらのヨーコさんは」
「わかんない。でもきっと、ヨーコに関係のあるヨーコだよ。だってヨーコだもん」
洋子は薄く微笑んでいた。両手にヨーコがいて、目の前にもヨーコがいて、なんだか心が軽やかになる感じがした。
「ええ、わかるわ。きっとあなたがいたからわたしはヨーコなのね」
病室には穏やかな陽光が差し込んでいて、ときおりカーテンが柔らかく揺れた。
「それで、この子もヨーコなんでしょ?」
杳子が聞いた。
「そうしようかしら」
ようこが、「きっとそれがいいよ」と言う。
ようこがヨーコの左手をとり、杳子がヨーコの右手をとった。
「ヨーコの輪だね」
そして四人は誰からともなく、くすくすと笑い始めた。
「もう帰りなさい。夜になると戻れなくなる」
ヨーコが言うので、杳子とようこは頷いた。
「まだまだヨーコの輪を増やすんだ」
ようこは、また来るからねと言って、そっと手を離した。杳子は、ばいばいと言って、洋子とヨーコの手をぎゅっと強く握ってから離した。
杳子とようこは光に包まれて、その夜、下界に雨が降った。
洋子はヨーコに柔らかいまなざしを向けて、ヨーコのお腹をさすった。
「よくわかりました。天使とはどういうものなのか。それをあなたは言葉だけでやり遂げたのです」
ヨーコは、「本当に天使だったのはあの子たちの方ですよ」と視線を落とし、洋子の手に自分の手を被せた。
(了)


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