【コミッション①】有為無為夢幻
ウクギ。本来「虚」の字を逆から読んで、ギは儀式のギ、逆さまになるのはカエルの代々の習わしで、しかしウクギは自分の名前の由来を知らない。物心ついたころに母はおらず、名付け親の父は異邦の者だったと聞く。母を身ごもらせた父はいつの間にかこの池からは消えていた。ウクギはトサラの家族たちと混ぜて育てられ、それはそれはもう生き生きとみなで泳ぎ回ったものだが、これはオタマジャクシの頃の話。気づけば脚が生え水から陸へと住み処を変え、その頃には見えない膜のようなものがトサラたちとウクギを隔てていた。トサラの者より体色が少しだけ青みがかっているウクギはトサラたちといると目立つので、鳥に狙われやすい。次第にトサラの里からは離れて暮らすようになり、今はひとり虫の少ない畔にある。
この池の全貌を知る者は誰ひとりおらず、トサラの長老も若かりしころには果てを目指して旅をしたとは言うものの、見渡す限りの鏡面反射の水面、鳥の影のみがぐわりぐわりと行き交うなかで、これこそがこの世の果てであろうと早合点をして、または怖じ気づいて里へと帰ったのだが、つまりここは池ではなく湖かもしれず、しかし海ではまったくない。そういったことだけがわかり、それがいつの間にやら尾ひれがついて大冒険譚として末長く伝わっている。ウクギも幼い頃にはその話をほかのオタマジャクシらと円になって囲んで聞かされたものだったが、正直なところウクギには果てへの興味はなかった。かのものの興味はただひとつ、飛び込むことだけにあった。
ポチャン。
さざ波が立った。ウクギは一瞬にして濡れた世界に取り込まれ、水面からは柔らかな太陽の光がゆらゆらと差し込んでいる。深くまで潜ると水草が群生してあり、ウクギの青は隠してはくれず、たおやかな緑のなかに青いしみとなることが許されるばかりで、それでも水は楽しく、いつでもウクギを支えてくれた。少しずつ音が聞こえなくなる。自身の立てた、飛び込みの音が、水のなかにほどけて、巻き込まれて消えてゆく。ウクギはしばし目を閉じていたが、光の脈をたどるようにして瞼の裏で視界を遠ざけたり近づけたりした。そのときだった。
スチョン……。
とても美しい音を聞いた。慌てて目を開くもそこに音の主はなく、太陽が揺れ、見事な光の輪を押し広げていた。鮮やかな青だけが、残滓としてそこにあった。ウクギは水面まで脚を伸ばして上がりきり、一息吐くと、息を整えながらあたりをうかがった。ありふれたいつもの池の景色がそこにあった。動くものの姿はどこにもなかった。もう一度、右、左と見渡してみる。突如、ウクギは浮遊感に襲われた。天と地がひっくり返り、水がどんどんと遠ざかっていく。くわえられているのだと気づいたときには反射的にばたばたと身体をねじらせていた。風がひりひりと身体を貫いて、衝撃とともに硬い感触が背中を打った。
これまで背をもたれさせたことはあっても、そこに寝ころんだことはなかった。それは硬い木の上だった。木々を突き抜けて、真っ青な空がウクギを覗き込んでいた。本能的な恐怖がウクギを襲う。慌てて身を起こすと、強い力で押し戻された。これまで見たどんな生きものよりも青い、空の色をはねのける力を持った青さの存在。ウクギはぐっと息を呑んだ。カワセミがウクギをじっと見つめていたのだ。
天敵である。ウクギは不思議と冷静になっていった。大して意味のない生だったと思ったが、悪くはなかった。そうすると、すらすらと言葉が流れ出てきた。
「カワセミはカエルの四肢をもいで食べるんだってな。一番旨いのは左足の付け根だとか。そこにカエルの真髄が宿っている。だからカエルは安定していない。いつもどこか傾いている。傾くから水に飛び込む。水から陸へ、陸から水へ。最後はどこででも死ぬ。そう、こんな木の上でだって」
カワセミは首を傾げた。ゆっくりとウクギを見つめ回したあと、嘴を鳴らした。
「ずいぶん昔に、お前のようなカエルを食べたことがあったな」
さすがのウクギも動揺した。
「喋れる、とか……なんなんだよ。餌の言葉を喋るのか?」
「普段は黙っている。絶対的なる捕食者が、自分と同じ言葉を喋れました、じゃあ救いがないだろう」
ウクギは突然やる気をなくした。ため息をついてよろよろと立ち上がる。
「悪いが、帰らせてもらうよ」
「こんなところから飛び降りたら死ぬぞ」
「飛び込むのは得意なんだ」
「陸の上でも、か?」
そこでウクギは初めて下を見下ろした。瞬間めまいが襲った。なりそこないの身体、あらかじめ不完全なこの身体を思った。
「神はなんだってカエルだなんて生きものを、つくりだしたのだろう」
「そんなことを考えたって楽しい気分にはなれないだろうな」
カワセミが、カッカッと近寄ってきた。
「水も知る、陸も知る、だからこそ己の不足を知ってしまう。難義な生きものだな、カエルとやらは」
「それはお前さんだって、餌をとるには潜らなければならない。それでも長いこと潜っておくことはできやしないじゃないか。カワセミが陸のものをとれないのは、昔先祖が過ちをおかしたからだと聞いたがね」
「そんな話は知らないな。お前は乾いている。今に陸の生きものになってしまうさ」
ウクギとカワセミは、互いに夢中になるあまり、辺りが暗くなっていたことに気がつかなかった。二人を引き裂く閃光。水が、流れてゆく水が天から降り注いだ。葉からぽたぽたと垂れる水、直接身体を濡らす水、上から下へと流れてゆき、雷鳴があたりに轟いた。
「運だけはあるらしい」
カワセミが空を仰いで言った。ウクギの肌は濡れ、その思考は明晰さを取り戻していった。ウクギがカワセミを見つめると、かのものは淡々と、こう言った。
「おれはアカシャー。お前を世界で最も優れたカエルにしてやろう」
その夜は、水に困らなかった。雨はますます降り続け、ウクギとアカシャーはふたりして木の上の、少し窪んだ部分に身を寄せていた。アカシャーの足元にウクギはいた。アカシャーの小さいながら立派な鉤爪を見つめていた。この鉤爪で、こんな天に近い場所まで連れてこられたのだ、と思った。
「暑くてかなわないや」
アカシャーの体温が直に伝わってきて、ウクギは酔いそうだった。ウクギは時折外へ出た。そうすると雨で身体が適度に冷やされ、気持ちがよかった。
「最も優れたカエルと言ったって、」
ウクギは大きな口を開け、水を呑み込みながら言った。
「なにをもって、そう言い切れるのさ。お前さんたちにとって最も美味しそうなカエルってことか?」
「カエルは阿呆しかおらんのか」
「何を」
「カワセミにできて、カエルにできないことがあるだろう」
ウクギはしばらく考えて言った。
「水の中を泳ぐことか?」
「それはカワセミにだって少しの間ならできるさ」
「それじゃあ飛び込むことか」
「それだってカワセミにはできる」
ウクギはアカシャーの飛び込みの音を思い出した。どこまでも鋭く引き締まった音。水のほうに存在を悟らせない流線型の飛翔体。ウクギはカエルのなかでは飛び込みに自信があった。自身の飛び込みの音を美しいと思っていた。トサラの次男坊なんて酷いものだ。ボッチャンと水の調和を掻き乱すような不協和音。トサラのものはあまり飛び込みがうまくないので、自分の飛び込みの洗練されている具合は父親ゆずりのものだと考えてきた。
「カワセミにできなくて、カエルにしかできないもの、それはだね」
アカシャーは羽をぶるりと震わせて言った。
「ひっくり返ることだよ」
「ひっくり返る……?」
ウクギにはそれのどこがすごいのか全くわからない。カエルがひっくり返るのは当たり前のことだからだ。
「このところ天が何やら騒々しくてね……どうも、天変地異の予兆だ。ここは星が近いから、ざわめきが伝わってくるのでは」
ウクギは耳を澄ませてみたが、聞こえてくるのは雨音ばかり。それで、今度は目を閉じてみることにした。そうしてみて、ウクギは初めて身震いした。細い葉が切り裂かれるようなかすかな悲鳴があちこちから聞こえてくるのだった。
「これは……一体何が起こっているんだ」
「星々は熱くて叫んでいるのさ。もうすぐ天地がひっくり返る。空があまりに熱くなるものだから、水を入れて冷やしてやらなきゃいけない」
「鳥たちだけがそのことを知っている……?」
「しかし鳥じゃどうしようもできないからな、鳥の長たちが方針を決めかねて右往左往している間に、おれがこうやって地上のものどもにも伝えてやっているわけなのだから」
「カエルならどうにかできるっていうのか?」
「ひっくり返ったものをもう一度ひっくり返すんだ。地が燃えたぎってしまう前に、星々から水を取り戻せばいい」
「しかしこんな小さな水辺を住み処としている者に……」
ウクギは地面を見下ろした。そこには、こぢんまりとした池があった。なんのことはない、ウクギの生きていた世界はあんなに小さかったのだ。鄙びた池だった。緑色にまどろんで、夜の底に沈んでいた。
「明日には月の方へ飛んでいこう。そこには冷えた水があるという。星々が喉から羽が出るほどほしがっている水だ。しかし星々は月の水には手を出せない。無重力がそれを邪魔するのさ」
「無重力って?」
「お前がいまそこに立っている、その力のことだ」
明くる日、雨はすっかりと止み、太陽がてらてらと睨め付けるように大地を照らした。ウクギはアカシャーにくわえられて、天高く舞い上がっていった。会話をすることもせず、黙々と飛んでいき、やがて高い山の上で休憩をした。その山は青々として、しかし山頂付近には乾いた草木が生い茂るのみで、水はなかった。アカシャーはウクギのために嘴を水に浸していたが、それもそろそろ尽きそうになっていた。
「また雨が降ってくれたらなあ!」
ウクギは短い呼吸を繰り返しながら喘いだ。
「もう雨は降らないさ、始まったんだ」
アカシャーが下を指さすと、そこには白い空間だけが広がっていて、下の様子は何も見えなかった。
「ずいぶんと高いところまで来たんだね」
「そうじゃない、雲が上昇しているんだ」
次の瞬間、ウクギとアカシャーは白い靄に包まれた。空気の壁を感じる。ごうごうと下から吹き上げる風がものすごい勢いでふたりを撫で抜けていった。
「この上昇気流に乗るんだ、夜には月にたどりつくさ」
アカシャーがウクギをくわえ、羽を大きく広げた。はばたかずとも、ふたりはぐんぐんと上昇した。白い空間を、もはや上も下もわからないまま、風の動きだけをたよりに進んでゆく。星々の悲鳴が大きくなっていった。そうして、少しずつ視界が開けていったとき、ふたりの前には巨大な天体が立ちはだかっていた。ぼんやりとその天体は不気味にまばたきし、低い音を出した。ウクギは知らなかったが、それは地球上でもっとも大きな生物の鳴き声に似ていた。
そのとき、アカシャーが突然ウクギを放り投げた。あっと言う間もなくウクギは宙に放り出される。ウクギは月に向かって落下していった。四方を手繰って踠き、呼吸のできなさに絶望して、ウクギは全身を痙攣させた。乳白色の境界がぐんぐんと迫ってくる。ウクギは無我夢中で四肢を張り、目を閉じたまま月へと突入していった。
ポチャン。
感じたことのない多幸感がウクギを包み込んだ。まるでここから生まれたかのようで、最初から自分を待ち受けていたもの、そして目指すべきであった場所であったかのように思った。ひんやりとした水は粒度が低く、ウクギの身体へすっと浸透していって、ウクギは薄く目を開いた。乳白色の視界はきらきらと輝いていて、ウクギは脱力して漂った。自身がほどかれ、融け出していくかのように感じられた。ウクギは、ウクギであることを忘れつつあった。
そうしてどのくらいの時間が経っただろう。何か、黒い点が見えた。それはだんだんと大きくなり、やがてこちらめがけて飛び込んできた。
スチョン。
一瞬でウクギはウクギを取り戻した。はあっと大きな息を吐き、月の魔力の恐ろしさ、抗いがたさに放心した。アカシャーはウクギを再び放り投げた。今度は地上へと。真っ青な星、地球へと。
ウクギとアカシャーはふたりして地上へ突入していった。やがてそれは絡まり、一対の光球となり、螺旋を描いて落下していった。ザザザァと波が押し寄せてくるのがわかった。ウクギとアカシャーが月の水を引き連れ、地上に降り注ごうとしていた。月はみるみるうちに乾いて、水は乳白色からだんだんと透明になってゆき、大きな音がして、地上は瞬時に冷やされた。地球は白煙に包み込まれ、外からは見えなくなった。
水は、七日と七夜降り注いだ。ウクギとアカシャーは大きなうねりのなかにはぐれはぐれとなり、二度と会うことはなかった。星々は冷やされ、いまの冷たい光になったという。地球は清廉な水ですっかり流され、やがてしじまがやってきて、月が水を取り返そうとするのを拒否するようになった。カワセミが光るのは、星の光の祝福を受けてのことだという。
以来、カエルが水の中へ飛び込むたびに天地がひっくり返り、水は天から地へ、地から天へと入れ替わっているのだが、人間の時間のなかにあっては、それに気がつくことは難しい。人類史上、ただ一人だけその事実に気づいたものがいたので、かれはこのような歌を詠んだ。
古池や蛙飛びこむ水の音



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コメント一覧
ありがとうございます。いい話や。
どこに辿りつくのかまったく分からず、ドキドキしながら読みました!
そこはかとなく、私の好きなラファティ味もあって素敵です。
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